春分の日。
名前の通り、その日を境に新しい季節……春がはじまります。
風の匂いが変わり、町の景色に緑が芽吹いてきます。
朋也くんは春から大きなお仕事があるらしく、張り切って計画を練っているようです。
しおちゃんも新しい学年とクラスを目前にして期待を隠せない様子です。
そしてわたしは……毎年この時期になると思い出します。
あの学校での出会いと、あの学校の卒業式と、そして……
わたしの名前が古河渚から岡崎渚に変わった日のことを。
●CLANNAD 10years after ~渚~
みんなが待ち望んだ春がやってきてから数週間が経ちました。
4月も半ばを過ぎ、ぽかぽかと穏やかな陽気が続いています。
寒さも和らいできた、そんないつもの朝。
わたしは6時半過ぎには自然と目が覚めます。
念のため7時前に目覚まし時計のアラームをセットしてはいますが、長年の習慣からか鳴る前に目を覚ますことがほとんどです。
音を立てないように布団を這い出ると、着替えを手早く済ませて台所に向かいます。
毎日のお仕事で疲れている朋也くんに少しの時間でも多く眠っていてもらいたい。それが妻として、わたしにできることのひとつだと思っています。
「おはよぅ~、ママぁ」
「おはようございます、しおちゃん」
台所で朝食の準備をしていると、寝ぼけ眼の愛娘……汐が起きてきました。
普段しおちゃんがパパに甘えられるのは、夜7時を過ぎてパパが家に帰ってからの限られた短い時間しかありません。
それを寂しく思ったのか、いつからかしおちゃんはパパがお仕事に出かけるのを見送るために朝早く起きるようになりました。
朝から家族三人揃って食卓を囲めるのは、しおちゃんだけでなくわたしやパパにとってもうれしいことです。
「朝ご飯作るの、あたしも手伝っていい?」
「ヘンなものを入れちゃダメですよ」
「はぁい」
いろんなことに興味を持つ好奇心旺盛なしおちゃんは、最近とうとうお母さんのパンにまで興味を持ってしまいました。
そのせいかお料理を手伝ってくれる時も独創的な発想をするようになってしまい、目が離せません。らっきょうはカレーに直接入れるものではないですっ。
「あ、おみそは少なめでいいです」
水を入れたお鍋を火にかけている間に大根を切っていると、その様子を見て手際良くおみそを用意してくれるあたりはさすがしおちゃん。あとは具にヘンなものを入れないように注意するだけです。
「そうなの?」
「はい、朝のおみそ汁は薄口です。朝起きたばかりですから、少し薄いくらいがちょうどいいんです」
「なるほど~」
大げさにうんうんと頷くしおちゃん。ここはなんとしても、改めてわたしが普通にお料理する楽しさを教えてあげなければっ。
「しおちゃん、お料理好きですか?」
「うん、お料理楽しいっ」
愛娘の元気な笑顔が、わたしにも元気を与えてくれます。
今日は何事もなく朝食の準備が整ったところで、ちょうどいい時間になりました。
わたしはしおちゃんと一緒にパパを起こしにいきます。
最初の頃は起こすより先に起きてしまっていたパパですが、ここ数年はわたしが起こすまでゆっくり眠ってくれています。わたしを頼ってくれるようになったみたいで、とてもうれしいです。
「朋也くん、朝です」
「パパ、朝だよ」
「……ぅんん……」
ふたりで布団の左右から声をかけると、一度寝返りを打ってから目を覚ましました。
パパは寝起きがいいほうです。時々寝ぼけてヘンなことしてきますけど。
「おはようございます」
「おはよう、パパ!」
「ああ……おはよう、渚、汐」
わたしたち家族の一日が始まりました。
「いってきます」
「いってらっしゃーい!」
「いってらっしゃい」
朝食後、お仕事に出かけるパパをふたりで見送ります。
今日は早く帰ってこれますように。そんなわがままを心の中で呟きながら、見慣れた後ろ姿を見送りました。
パパを見送った後、しおちゃんは登校時間までテレビでアニメを見ています。お父さんやふぅちゃんの影響か、女の子向けのアニメより男の子向けのアニメをよく見ているみたいです。
しおちゃんが好きなら男の子向けでも構いませんが、お父さんの部屋みたいになっちゃったらちょっと困ります。
わたしはその間に、まずはお布団を畳みます。
川の字に並べられていた布団を畳んで押し入れに片づけると、次は洗濯です。
洗濯物が入った洗濯かごを洗濯機のところに持っていきます。
ここで暮らし始めた頃はアパートの正面にあるコインランドリーを使っていましたが、しおちゃんが生まれた時に我が家にも洗濯機が導入されました。朋也くんが働いている会社の社長さんから出産祝いに頂いたものです。
洗濯機と洗濯かごを並べて置くとお風呂に入る時に着替える場所がなくなってしまうので、洗濯機は流し台の横の収納スペースに置くことにしました。
その時は自分の手でできる家事がひとつ増えたことがうれしかったのをよく覚えています。
「いってきまーす!」
「いってらっしゃいです」
洗濯物を干した後は、登校するしおちゃんを見送ります。
だんご大家族のキーホルダーをつけた赤いランドセルを背負った元気な後ろ姿が見えなくなるまで見送りました。
その少し後、わたしも戸締まりをして出かけます。
行き先はファミリーレストラン。わたしが初めて働いた場所です。
わたしがしおちゃんを身ごもったことで働けなくなってしまった時は、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
でも店長さんはわたしたちを祝ってくれました。そして数年後、もう一度ここで働くことを快く承諾してくれました。
以前は自分と朋也くんのために働いていました。今はわたしたち家族と、汐ちゃんの夢のために働いています。
*
夕方になる前にはお仕事が終わり、帰りに買い物をしてから家に帰ります。
やがて学校とその後の音楽教室を終えたしおちゃんが帰宅し、一緒に夕飯を作っていると……
「ただいま~」
朋也くんが帰ってきました。今日はいつもの時間にお仕事が終わったようです。
「おかえりなさい」
「おかえりパパっ」
エプロンをつけたまま、ふたりでパパを出迎えました。
家族の時間の始まりです。
「うめぇなぁ」
かちゃかちゃと茶碗の音を立てながら、二杯目のご飯を食べる朋也くん。なんだか子供みたいです。
最近、朋也くんはますますお父さんに似てきました。
「パパ、お行儀悪いよ。めっ」
「お、おぅ。すまん」
娘に怒られるところもお父さんそっくりです。
「ところで汐、新しいクラスはどうだ?」
「うん、楽しい。新しい友達もできたし」
「よかったですね、しおちゃん……」
わたしができなかったことを……叶えられなかった夢を、しおちゃんは叶え続けています。
その夢のひとつひとつが、わたしに生きる幸せを感じさせてくれます。
「朋也くん、お風呂沸きました」
「おう」
夕飯の片づけが終わったら、次はお風呂です。
だいたいはパパが一番風呂でしおちゃんが二番、わたしが最後に入って上がる前に浴槽を軽く掃除しています。
「汐、たまにはパパと一緒に入ろうぜ」
「だ、ダメだよ。いくらパパでもやっぱり恥ずかしいし……」
「くぉぉーーーーっ」
顔を赤くして恥ずかしそうにしているしおちゃんを見て、パパが悶えています。昨日も同じことを言っていた気がします。
わたしも小さい頃、同じように毎日お父さんに誘われて、そのたびに断っていました。小学生とはいえ、しおちゃんも年頃の女の子です。
しおちゃんがひとりでお風呂に入るようになってから、実はわたしも少し寂しく感じていました。けれど、そこは愛娘の成長を親として喜んであげるところだと思います。
「パパ、ママ、おやすみなさい」
みんながお風呂を終えて9時半を過ぎると、しおちゃんはもう寝る時間です。
寝る子は育つと言うけれど、しおちゃんはわたしの期待以上に元気に育ってくれました。
「おやすみなさい、しおちゃん」
「おやすみ汐」
しおちゃんが寝静まると家族の時間は終わり、夫婦の時間が始まります。
「朋也くん、ワイン飲みますか? 白ワインです」
「おっ、寝る前の一杯にしちゃ豪勢だな」
「今日はちょっと奮発しちゃいました」
「記念日だもんな。ありがたくいただくよ」
そう言って朋也くんはワインを注いだグラスを手に取りました。
「覚えてたんですか……」
「当たり前だろ。今日で俺たちが一緒になって十年だ。と言っても、ちゃんと式を挙げてからは八年だけどな」
「はい。あっという間でした」
「八年目の結婚記念日はゴム婚式って言うらしいぞ」
「そうなんですか。それは知りませんでした」
「そこで今年は……これだ」
朋也くんは綺麗にラッピングされた箱を取り出しました。
「開けてみてくれ」
「なんでしょうか。どきどきします」
丁寧に箱を開けると、中に入っていたのはだんご大家族のヘアゴムでした。玉の部分がだんご大家族になっています。
「杉坂の親父んとこで取り寄せてもらったんだ。今じゃプレミアもんだぜ」
「わぁ……懐かしいです。小学校の時つけてました」
「だったらちょうどいいじゃん。せっかく髪長くしたんだしさ、たまには違う髪型にしてみないか?」
「でもこれ、しおちゃんも欲しがりそうです」
「そう言うと思って……これだ!」
朋也くんはもうひとつ箱を取り出しました。
「ふたつ買ってきた」
「さすがは朋也くんですっ。しおちゃんのこと、よくわかってます」
「おう、渚のこともよくわかってるぜ」
朋也くんは得意げに親指を立ててみせました。
「わたしのほうはゴムじゃありませんけど……」
紙袋に入れられたプレゼントをテーブルの上に置きました。
「じゃ、開けるな」
「はい」
包装を解く朋也くんを見ながら、またどきどきしてきました。気に入ってもらえるでしょうか。
「おお……! これ、あの時の革ジャンか?」
「はい。この前出かけた時、朋也くんが見ていた服です。朋也くん、欲しそうな顔をしていましたので」
「そりゃ欲しかったけどさ……高かっただろ?」
「いえ、わたしのお給料で買えました」
それでも何か言いたそうにしている朋也くんにわたしは言葉を続けます。
「朋也くん、わたしにおしゃれしてくれって言っておいて、自分は古い服を着続けてます」
「俺ももうオッサンなんだし、服装なんか気にしてもしょうがないだろ」
「そんなことないです。朋也くんはわたしの自慢の旦那さまですっ。かっこいいです」
「くぉぉーーーーっ!」
わたしが正直な気持ちを伝えると、朋也くんはさっきみたいに悶えてその場を転がっていました。
「それにしおちゃんだって、かっこいい服を着たパパと一緒に歩きたいはずです」
「かっこいいパパに美人のママに可愛い娘、誰もが羨むラブラブ家族だな」
「はい」
「……ありがとな、渚」
少しお酒が入ったからでしょうか。いつもは恥ずかしがって言わないようなことを朋也くんはまっすぐに言ってくれました。
「結婚して十年。今日からまた、新しいスタートです。これからもよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくな」
あの時のように、改めてふたり頭を下げ合います。
「でもおかしいよな。結婚式まで二年も留年なんてさ」
朋也くんの意地悪な言葉が、わたしの胸に突き刺さりました。
「朋也くん、わたしのこと嫌いですか」
「じょ、冗談だって。涙ぐむなよ」
朋也くんは慌てた様子で言葉を続けます。
「髪伸ばした時も言ったけど、おまえ最近ますます早苗さんに似てきたぞ。そのうち泣きながら町を走り出しそうで心配だ」
「そうしたら朋也くん、お父さんみたいに『大好きだーーっ!』って大声で叫びながら追いかけてきてください」
「それは嫌だぁ……」
「冗談です。えへへ……」
朋也くんの意地悪には慣れっこなので、こうやってたまにはわたしもお返しします。
「このやろっ」
小突く真似をして、朋也くんはわたしの頭に手を載せました。
こうやって手を載せられていると、出会ったばかりの頃を思い出して心が温かくなります。
「……」
頭に手を載せたまま、無言でわたしを抱き寄せる朋也くん。
見つめ合うわたしたちの距離が、少しずつ近くなっていきます。
おでことおでこがくっついて、やがて……
キスをしました。
そして、結婚十年目を迎えたふたりの時間は朝まで続きました。
…………。
……。
……えっと……
これ以上は恥ずかしくて言えないです……。
――おしまい。
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感想などをお題箱で伝えてくれたら嬉しいです!
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●後書き
CLANNAD10周年記念SS第19弾、渚アフターでした。
『光見守る坂道で』の渚編で渚の一人称は普通の語り口だったので最初はこれまでのSSと同じように書いてたんですが、やっぱり渚は丁寧口調な一人称のほうが個人的にしっくりきたので地の文を書き直しました。
そして、結婚記念日は籍を入れた日じゃねーか!と書き終えてから気づいた。でも籍を入れた日だと夏だからその辺の描写も変えなきゃダメだし時間もないし……というわけで朋也と渚にとっては式を挙げた日が結婚記念日になっている、ということでお願いします。
先週の段階で「結婚十周年の渚と朋也がイチャイチャする話」くらいしか考えてなかったのによく頑張った自分!