結論から言うと、彼女は困っていた。

人間、誰しも自分の存在について考える時がある。自分はどうして自分なのか? なぜここにいるのか? どうやってこの世界に生まれてきたのか? 幼く無知な子供の頃でも、その狭い視点で一生懸命考えたりする。

特に彼女は生まれた時から「双子の妹」という最も近しい――それでいて自分と異なる――存在を認識していたため、そういった疑問に至るのが普通の子供よりも早かったかもしれない。

自分も小さい頃、こうして周囲の大人を困らせていたのだろうか。そんな遙か昔に彼女は思いを馳せる。

「遙か昔とか言うな!」

失礼なナレーションに思わず声を荒げた彼女は、すぐに我に返ってその口を両手で塞ぐ。

もとい。

子供は、とかく訊きたがりだ。無知ゆえに知識を求め、自分で考えてもわからないことはすぐ人に訊く。

だが時にはその無邪気な質問が、多くの大人たちを揺るがす引き金となってしまうこともある。

遙かなる過去、神話の時代。無類の強さを誇っていた兄弟の神がいた。ある時、子供が「ふたりの神様はどちらが強いの?」と些細な疑問を口にする。結果、仲の良かった兄弟神は互いの強さを懸けて相争い、共に命を落とすことになった。

そして彼女は今、その兄弟神と同じ心境にいた。

いや、ちょっと……いやいや、かなりオーバーな例えだったかも。彼女は脳裏に浮かんだ光景を打ち消すように首を振って、長い髪を揺らした。

彼女の目の前できらきらと輝く、純粋な瞳。

まっすぐに彼女を見つめてくる視線。そこには信頼と、大きな期待が込められていた。

その小さな迫力に気圧されながらも、彼女は意を決して……

「こ、コウノトリが運んでくるのよ……」

一般論に逃げた。

汐はどこからやってきたの?

なんで海は大きいの?

どうしてお空は青いの?

どうしてゾウさんの鼻は長いの?

オオカミさんはどうしてそんなに……お口が大きいの?

古今東西、大人を困らせる子供の質問はいっぱいあるが、一番困るのは間違いなく「子供はどうやって生まれてきたの?」だろう。

そう。彼女……藤林杏○6歳(独身)は今現在、その質問に絶賛お困り中だった。

「うっさいわね!」

失礼なナレーションに思わず声を荒げた杏は、不思議そうな顔をしている目の前の女の子に気づくと我に返り、「こほん」と咳払いをひとつした。

女の子は可愛く小首を傾げてから口を開く。

「せんせい、パパとおなじこといってる。コウノトリさんは、コウノトリさんのこどもをはこぶ。汐は、はこばない」

「そ、そうよね。はハはは……」

杏は引きつった笑顔で変に裏返った笑い声をあげた。年を重ねてもまだ「あの馬鹿」と同じ思考だったという事実にショックを受けた彼女は、床に両手をついて落ち込んでしまった。その哀愁漂う背中を女の子が「よしよし」と撫でる。

その女の子……岡崎汐は、幼稚園の先生である杏の教え子であり、彼女の高校時代の友人夫婦の一人娘でもあった。

困り果てた杏は難しい顔をして顎に手を当てる。それは彼女が思考にふける時の癖だった。

もちろんあたしは答えを知ってるんだけどさ……知ってるからこそ余計に説明しづらいというかなんというか……なまじ知り合いの娘だから生々しい想像をしてしまってヤバイっていうか……でも実際に経験したことないんだから説得力がないっていうか……。

だんだん思考がピンク色になってきたのを自覚した杏は、赤くなった顔をごまかすように慌てて首を振った。

「マ、ママには訊いてみた?」

訊いてその答えに納得したのなら、わざわざあたしに訊いてこないわよね……。そう思いつつも、良い答えが思いつかなかったので一応訊いてみる。

「きいてみたけど……ママのいってること、汐にはわからなかった」

「へっ?」

思わず変な裏声になった。

「パパと、なにかしたって」

ま、まさか……。

杏の脳裏に「渚の爆弾発言」の数々がよぎった。

な、渚……あんたって娘は……。

え? もしかして実践してみせたんじゃ……

ちょ、ちょっと待って! そりゃ夫婦なんだからそういうこともするだろうけど……ていうかしないほうが不自然なんだけどっ。でもでもっ、さすがに娘の前でするのはどうなのよっ。教育者の端くれとして容認できませんっていうかとにかくダメダメ、ダメだからねっ!

「せんせい、どうかしたの?」

「……はっ」

これ以上ないくらいに混乱していた杏は、汐の呼びかけで我に返った。そしてすぐに首を振って脳内妄想を振り落とす。

もしかして欲求不満なのかしら……。確かに家じゃ椋が、交際中の彼氏について逐一報告してくれるんだけど。そりゃもう口から砂糖吐くほど甘ーーったるい話をさ。もうとっとと結婚しちゃえよ!みたいな。もう婚約してるみたいだけど。……はぁ。

自己嫌悪の渦にどんどん飲み込まれていく杏だったが、目の前に立っている汐から不安の感情を感じ取ると、すぐに気持ちを先生に切り替えて教え子と真摯に向かい合う。人差し指を立てて、自分の中にあるひとつの答えを口にした。

「汐ちゃんも、大人になったらきっとわかるわ。女の子にとっては大事なことだから、その質問は未来の旦那様……結婚したい、お嫁さんになりたいって男の人が現れるまで取っておきましょ」

それは藤林先生としてではなく、あくまで汐と同じ女の子(と呼ぶには無理がある年齢ではあったが)としての答えだった。

失礼なナレーションに「無理がある年齢で悪かったわね!」と声を荒げる気力もなくなった杏とは対照的に、その答えに納得したらしい汐は満面の笑顔でこう告げた。

「うん。おとなになったら、もういっかいパパにきく」

「……へっ?」

また変な裏声が杏の口を突いて出た。

「な、んで……パパに訊くの、かな?」

猛烈に嫌な予感がするのだが、湧いて出た疑問を彼女は抑えられなかった。恐る恐るその疑問を口にする。

「汐、パパのおよめさんになる」

「――――――っ!!」

汐の爆弾発言! 杏の背中を稲妻が駆け巡り、声にならない声を発する。

「ちょ、ちょっ、ちょちょっ、ちょっっ、ちょちょちょっ、ちょちょちょちょちょちょちょちょty」

彼女の動揺は限界を突破し、テンパリと呼ばれるレベルにまで達していた。言葉にならない言葉を壊れた蓄音機のように繰り返している。

その後、言葉が止まってからもしばらくの間は口をぱくぱくさせていた彼女だったが、なんとか自分を落ち着かせようと大きく深呼吸をしてから話を続けた。

「ちょっっっっ……っと待って! ぱ、パパとは結婚できないのよっ!」

まだ動揺が残っているようだ。出だしから言葉につまずいて無駄に長い溜めが入ってしまう。

「でもパパはおよめさんにしてくれるっていった」

「あンの馬鹿……」

思わず先生という立場も忘れて素に戻った杏は、両の拳を強く握りしめる。その豪腕から繰り出される投擲という名の遠距離攻撃は学生の頃に数多の男子生徒を震え上がらせたものだが、今はその黄金の右腕が使われなくなって久しい。

皆、大人になった。馬鹿をやっていられる時間は終わったのだ。

それでも時折、思い出に還るように何かしらの馬鹿をやらかすのが汐のパパ……岡崎朋也という男だ。

あの渚の卒業式も、思えば朋也からの電話がはじまりだった。それ以来お互いに忙しくて会う機会もなかったが、いろんなことがあったと渚から話を聞いていた。

そして今年になってふたりと再会してから……汐と出会ってからもいろんなことがあった。

その最たるものは、汐の神隠しだ。

神隠しなんて言うと大仰だと思われるだろうが……誰にも心当たりがなく、時間は夜明け頃、極めつけに内鍵がかかったままの密室状態の部屋から姿を消していたのだ。いなくなった理由も方法も、論理的に説明できない状況だった。

結果は目の前の小さな姿からも一目瞭然だろうが、杏の妹が勤める病院の敷地内で見つかった。その病院に通う女の子が発見したらしい。木陰で眠っていた、という話だった。

「……」

強く握りしめた拳の力がすっと抜けていく。汐が消えた時の朋也の取り乱した姿、渚の不安そうな顔……。そして汐が見つかった時の涙に濡れた渚の笑顔、朋也の嬉し泣きのような表情……。彼らが汐に対してどんなに愛情を注いでいるか……汐を見ていれば杏にだってわかる。

「えーっとね、汐ちゃん」

でもそれはそれ、これはこれ。杏は頭を切り替えて汐の説得にかかる。とにかく血の繋がった父親とは結婚できないのだ。倫理は守ろう。……とりあえず。

「えーっと……」

しかし、ここまで父親を信じちゃってる汐ちゃんをどうやって納得させよう……。杏は頭をひねる。

「汐ちゃんと汐ちゃんのパパは、家族でしょ? 家族とはね、結婚できないのよ」

「?」

なるべく簡潔に説明したつもりだったが、汐は不思議そうな顔をしていた。

「それじゃ、だれともけっこんできない」

「?」

今度は杏が不思議そうな顔をする番だった。

「パパもかぞく、ママもかぞく。せんせいもかぞく」

「へっ? あたしも?」

びっ、と杏の顔を指差しながらそう告げた汐に、杏は驚きを隠せなかった。

「みんな、かぞくだよ。だんごだいかぞく」

ああ……そういうことだったのか。

杏の顔に自然と笑みが浮かんだ。それは彼女にとって懐かしい日々の記憶……聞き覚えのある言葉だった。

汐の中に母が……渚がいる。

やっぱり親子ね。容姿なんかもそっくりだし。娘は父親に似るって言うけど、この子は間違いなく母親似ね。そりゃ、あの馬鹿も惚れるわけだ。

杏は後先考えず娘と婚約した「パパ」の気持ちが少しだけわかった気がした。わかったとは言っても、越えてはいけない一線を越えようとしたら全力で――武力行使もいとわず――阻止するのだが。

「せんせいは、けっこんしないの?」

「うっ……」

不意に飛んできた汐の無邪気な質問が杏の心をえぐる。

うう、困った……どう答えよう?

藤林先生の答えその1。「先生は結婚したくても相手がいないのよ」……ダメだ、正直すぎる。

藤林先生の答えその2。「先生はいつでも結婚できるけど、今は結婚しないだけなのよ。本当よ本当、嘘じゃないからねっ」……なんだろう、この敗北感。

藤林先生の答えその3。「本当は汐ちゃんのパパと結婚したかったのよぉぉーーーーっ! でもあたしの初恋は告白する前に終わっちゃったのよぉぉぉぉーーっ!!」……ぶっちゃけすぎだ。

ううう……あたしって一体……。

「せんせい」

「な、なあに?」

自己嫌悪スパイラルに陥っていた杏を汐の声が呼び戻す。

「『ばい』ってなに?」

「……はイィ!?」

これまでにないくらい裏返った声が杏の口から飛び出た。

「せんせいは、『ばい』だからけっこんできない、ってパパがいってた」

「そ、そう……パパが、ね…………」

一転、恐ろしく冷たい声が杏の口から発せられた。だがその冷気も一瞬のこと、彼女はにこやかに笑みを浮かべる。

「汐ちゃん、ママが迎えに来たら、今日は先生も一緒に帰ろっか?」

「うんっ。なべもいっしょにかえっていい?」

「ええ、いいわよ」

ふたつ返事で了承する。ボタンもきっと喜ぶだろう。

「それから、ちょっと汐ちゃん家に寄らせてもらうわね。久しぶりに汐ちゃんのママともお話したいし……」

両の拳に再び力がみなぎってくる。いやー、やっぱあいつと付き合ってたらいつまで経っても馬鹿がやめられないわ。あたしもまだまだ子供なのかもね。

高校生活最後の年、友人たちと一緒に馬鹿をやったあのかけがえのない日々から数年……

その年を最後に封印されていたあの武器が今、再び杏の手に……黄金の右腕に甦った!

「パ・パ、にもいろいろと話があるし……ね?」

「へぇっくしょい!」

とある事務所内で、静寂を破る豪快なくしゃみが周囲に響き渡る。

そのくしゃみの発生源である岡崎朋也は現在、今期の伝票整理に追われていた。

「大丈夫かい、岡崎くん。はい、お茶」

「あ、ども。ありがとうございます」

ちょうど事務所に戻ってきた親方が、湯飲みと茶菓子の載ったお盆を朋也の席に置く。

朋也は整理が終わったほうの伝票の山を「済」と書かれた引き出しに入れると、湯飲みを手に取って一息ついた。

「風邪には気をつけてね」

「いや、今のは風邪じゃないですよ。誰か噂してんじゃないすかね」

湯飲みを傾ける朋也を見ながら、親方が目を細める。

「浮気はダメだよ」

「ぶっ……!」

お茶を吹きかけた朋也は、寸でのところで口を押さえて大惨事を免れた。

「何言ってんですか! 俺は渚……嫁さん一筋っす!」

「ははは、冗談だよ、冗談」

「冗談キツいっすよ親方……」

ひとしきり顔を赤くして照れた後、親方と談笑を興じる朋也。

彼はまだ、その身に迫る危機を知らない……。

――終わり。

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感想などをお題箱で伝えてくれたら嬉しいです!

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後書き

杏ちゃん○6歳(独身)、封印されし伝説の武器「血塗られた辞典」を再び手にする!の巻、でした~。

杏メインのSSは初めてだったので難しかったですが、楽しんで書けました。「汐の爆弾発言」のあたりは特にノリノリです。その楽しい気持ちが読んでくれた人にも伝わっていれば嬉しいな。