「暑い……」

「本当、今日も暑いですね」

わかりきっている事実を今さら確認し合ったところで、室温が下がるはずもない。

開け放たれた窓から日が差し込んでくる午後の資料室は、さながら焦熱地獄といった様相だった。

正面に座っている宮沢の背中から湯気のようなものが上っていくのが見える。熱気が目に見えるほどの暑さなのか……。

俺は机に頬をつけて、ぐてーっとへたり込んだ。

「コーヒー、もう一杯いかがですか?」

「ああ……頼む」

俺とは対照的に涼しい顔をした宮沢が、空になったグラスを手に席を立つ。

どんなに暑かろうが、今日もいつもと変わらない一日になりそうだった。

ゆきねぇーしょん!

この場所で初めて宮沢と出会ってから早数ヶ月。

俺は相変わらずここ……資料室に足しげく通っている。

振る舞われるコーヒーがホットコーヒーからアイスコーヒーへと変わり、やがて夏休みになって学校へ来る理由がなくなっても、俺は変わらずここに通う毎日を続けていた。

俺と同じようにここへ通っていた春原は、数日前から実家に帰っている。一週間ほど向こうに滞在するらしい。

今年は一度も実家に顔を見せてなかったらしい春原が、なぜ急に里帰りすることになったのか。結局その理由が本人の口から語られることはなかった。

思い当たることがあるとすれば、宮沢の兄の墓参りに行ったあの日を境に、あいつの口から妹の話題をよく耳にするようになったくらいだ。

同じ兄として何か思うところがあったのか、キョウダイと呼べるものがいない俺にはよくわからない。

ともあれ、主がいなくなった寮の部屋は今は俺が使っている。春原が実家に帰っている間は、俺は実家に帰らなくて済む。なんとも皮肉なものだ。

「あぢぃ……」

机と密着している左の頬が熱くなってきたので、仕方なく顔を上げる。

小難しいことを考えてても、余計に暑く感じるだけだ。

「はい、どうぞ。氷もたくさん入れておきましたよ」

席に戻った宮沢はスプーンで軽くかき混ぜた後、俺の前にグラスを置く。早くも溶けかかっている氷が、からんと涼しげな音を立てた。

「サンキュ」

グラスを手に取り、口をつける。

「ん、おまえのコーヒーはいつもうまいな」

「いやです、朋也さん。照れてしまいます」

「照れることじゃないだろう。本当のことなんだから」

「いえ、照れてしまいます。……そうやって褒められることが少なかったですから、わたしは」

照れからか、それとも暑さからか、顔を赤らめた宮沢が立ち上がる。

そして強い日差しに目を細めると、窓の外を見た。

「今日もいい天気ですよ、朋也さん」

「ああ、嫌なくらい晴れ晴れとしているな」

「ここで寝ているだけなんて、もったいないですよ」

「そっか……」

俺も外を見ながら目を細める。

「よし、じゃあ久しぶりにふたりで出かけるかぁ!」

「はいっ」

「って久しぶりも何も、ふたりで出かけたことなんかまだ一度もねぇよ!」

「はい?」

思わず口に出した願望にも一秒で了承してくれる宮沢に、俺は悲しくなって自分でツッコんでしまう。

というか……

「……このやり取り、前にもした気がするぞ」

「そうですか?」

出会ったばかりの頃にも、ここで似たようなことがあった。その時も宮沢は一秒で了承していた気がする。

その頃より少しは仲が進展したと思っていたのだが……なんだか自信がなくなってきた。

「朋也さん、出かけないんですか?」

「あ、ああ……今日も勇の奴が来るかもしれないし、もう少し日が落ちて涼しくなってからにしよう」

「そうですか。楽しみにしてますねっ」

そう言って、宮沢はとびきりの笑顔を見せてくれる。一瞬、暑さを忘れるくらい、俺はその顔に見惚れていた。

適当に言った俺の願望で、こんなに喜んでくれるとは思わなかった。

……って待て。よく考えたらこれって初デートじゃないのか。

うおおっ、やばい。何も考えてなかった。

「むむ……」

「朋也さん、どうかしましたか? 難しい顔して」

俺は宮沢の前でしばらく唸り続け、また小難しいことを考えたからか暑さにやられてアイスコーヒーのおかわりをいただくこととなった。

「それじゃあ……今日もおまじない、いっちゃいましょうか」

俺がグラスの中の氷をぜんぶ噛み砕いて落ち着いたところで、宮沢は懐から小さな本を取り出す。

それは二度目の決別を終えた宮沢にとっても、そして俺にとっても大事なこと……今はもう亡き人への手向けのようなものだった。

「じゃあ、涼しくなるおまじないを頼む」

「ええ、ありますよ」

「なんでもあるんだな……」

ぱらぱらとページをめくる。

「まずは、胸の前に右手を持っていってください」

相変わらずよくわからないポーズ指定だが、黙って言われた通り右手を胸の前に持っていく。

「はい、結構です。それで……『コンヤ、ジュウニジ、ダレカガ、シヌ』と心の中で3回唱えてください」

「よし……って怖ぇよ!」

思わず胸の前に配置された右手を捻るように動かして空を叩く。以前は悪魔的に効果抜群だった宮沢のおまじないだけに、この呪文はシャレにならない。

そんな俺の反応を見て、宮沢はくすくすと笑い出した。

「涼しくなりましたよね?」

「一瞬な」

「それは良かったです」

「……」

にこにこと笑顔を浮かべている宮沢は、それ以上言葉を続ける様子がない。まさかとは思うが……

「それで、終わりなのか?」

「はい、終わりです」

「マジで終わりなのかよっ!」

もう一度、右手で空を叩く。もしかして、このポーズはツッコミ待ちのために取らせたんじゃないだろうか。

思わずまたツッコんでしまった俺を見て、宮沢もまたくすくすと笑う。

俺が馬鹿をやって、宮沢が笑ってくれる。いつからか俺は、人を笑わせて自分も笑えるような……そんな人間になれていた。

『朋也さんは、人が嬉しい気持ちになったら、自分も嬉しい気持ちにならないんですか?』

出会ったばかりの頃、宮沢から問われたこの言葉に、今ならはっきりと頷ける。

だって俺は宮沢の笑顔が見たくて、ここにいるんだから。

「ゆきねぇ!」

突然の大声に振り向くと、開いた窓を乱暴に反対側へ押しやり、頭から血を流した大男が窓枠を乗り越えて中に入ってきていた。

最初の頃は俺も驚いたものだが、この光景すらも今は見慣れたものとなっていた。

「見てくれ、ゆきねぇ! この傷がかさぶたになれば千百個目だぜっ!」

他校の制服をだらしなく着た男は、流血した頭を指差してニカっと笑う。アホだ。

「それはよかったですね」

「いや、よくないだろ……さっさと病院へ行け」

「なんだとてめぇ……傷は男の勲章だぞ。わかってんのか、コラ!」

机の上に身を乗り出して睨みをきかせる男。その顔にも、右目の上下と左頬に大きな切り傷がある。

そういや最初に宮沢と出会った時、この人と名前を間違えられたんだよな、俺。

あれから半年も経たずに百個近くかさぶたが増えたのか……ある意味すごいな。

「蛭子さんは病院が苦手なんですよね」

「おっと誤解しないでくれ、ゆきねぇ。俺は病院に行きたくねぇわけじゃねぇ……行かねぇだけだ」

「同じじゃん」

「違うさ。その証拠を見せてやろう」

言いながら男は、羽織っている学ランの襟をがしっと掴む。

「見やがれっ! これが男の中の男……漢の勲章よぉ!」

任侠劇画のようなセリフを吐きながら、男はおもむろに上着を脱ぐ。

おいっ、女の子の前だぞっ。

とか思ったんだが、宮沢はぜんぜん気にしてなかった。

「どうだ、恐れ入ったか」

「うわあ……」

思わず驚嘆、というか困惑の声が漏れる。ていうか普通に引く。

男の上半身には、目に見えるくらいに生々しい無数の傷痕があった。

『千のかさぶたを持つ男』という通り名はハッタリじゃなかったのか。つーか今は『千百のかさぶたを持つ男』なんだな……。なんだか未知の世界を垣間見た気分だ。

「この身体に刻まれた傷、そしてかさぶたの数が……」

「あ、誰か来たみたいです」

「……」

俺がどう反応したらいいのか決めかねていると、何かに気づいた宮沢が窓際に駆け寄っていく。 まったく話に触れてもらえなかった男はちょっと寂しそうだった。

「勇くん」

窓枠に小さな手が見える。懲りずに窓側からの侵入を試みた勇が窓枠に掴まっているようだった。

あいつが最初にここへ入ってきたのも窓からだったが、あの時は何か踏み台のようなものをわざわざ持ってきていたらしい。

「あいつの背丈じゃ、まだ無理だろ」

「窓枠に飛びついて下りられなくなったみたいですね。わたし、ちょっと出てきます」

俺がいくよ、と言う暇もなく、宮沢は資料室を出ていってしまった。

「……」

上半身裸の男とふたりきりで部屋に残される。嫌な構図だ。

「この身体に刻まれた傷、そしてかさぶたの数が、俺の生きている証ってわけだ」

何事もなかったように、男がセリフを最初から言い直していた。

「……」

俺が何も反応せず黙っていると、男は全身の傷を見ながら何かを思い返すように遠い目をした。

「こうしてかさぶたになった傷を見ていると思い出すぜ……俺がこれまでに戦った数多くのライバルたちをよ……」

「智代とも戦ったのか?」

「う……」

男の顔が引きつる。

「坂上か……あいつには百個くらいつけられたな」

つけられすぎ。

「この傷は……?」

ふと、全身の至るところにある無数の傷の中でも見るからに痛々しい傷痕が目についた。

「この左胸の傷か……」

男は確認するように、俺の視線の先にある傷痕を指差してみせる。

どうやったらこんな大きな傷ができるのだろうか。想像もつかなかった。

「肋骨が二本もなくなっちまったからな」

男は事もなげに言う。大きく抉れたその傷痕を見ていると、右肩が疼いた。

「……なんで、こんな……」

かろうじて口を開くも、結局途中で言葉を濁してしまう。触れられたくないことだっただろうか。

男はまっすぐに俺の目を見据えて、口を開いた。

「これは、ある人に命を救われた時にできたものだ」

こんなひどい怪我をずっと放っておいて大丈夫なんだろうか。俺は率直に訊いてみた。

「治療しないのか?」

「治療はしない。俺は命を救ってくれたその人のためにも、この胸の痛みを一生背負って生きていくつもりだ」

痛みに耐えるような表情で、男は目を閉じる。それは傷の痛みではなく、心の痛みなのだろう。

俺はこの話を聞いて、宮沢の兄の話を思い出していた。

『兄は、事故で……帰らぬ人となってしまいました』

『その時も、仲間の誰かを庇ったんだそうです』

痛みを一生背負って生きていく。そういうことなんだろうか。この男がここにいる理由は。

「まさか、あんた……」

「勘違いするなよ。俺は何もカズさんへの恩とか罪滅ぼしとか、そんな義理や義務でここに来てるわけじゃねぇ。俺は馬鹿だからな。ゆきねぇの前で馬鹿やって、笑ってもらう。ただ、それだけだ」

男が歯を見せて笑う。それはとても無邪気な笑顔だった。

「おまえだって、ここにいる理由はそんなんじゃないだろ?」

「ああ。俺も兄代わりとして宮沢のそばにいるわけじゃない。ひとりの男として、あいつをずっと笑わせてたいだけだ」

「へっ、言うじゃねぇか。俺たちの前で堂々とゆきねぇの唇を奪いやがっただけのことはある。その度胸だけは認めてやるぜ」

「この場合、ありがとよ、とでも言っとけばいいのか?」

「なんで礼を言うんだよ。律儀だな、おまえは」

男がまた豪快に笑う。俺も釣られて笑う。大の男がふたり、馬鹿みたいに大声で笑い合った。

「そろそろ時間だ。じゃあな」

ひとしきり笑った後、男は俺に背を向けて窓際へ歩いていく。その背中にも無数の傷があった。

つーか、外に出るなら服着ろよ。

「宮沢が戻るのを待たないのか?」

「ああ、また来るさ」

背を向けたまま軽く手を上げた男は、窓枠を跨いで外に出ていった。

あの男といい他の奴といい、ここに来る男どもは普通に扉から出入りできないのだろうか。

「ただいま戻りました」

「ああ、おかえり」

間もなく扉が開き、勇を連れた宮沢が戻ってきた。

「蛭子さんはもう帰ってしまったみたいですね。残念です」

「ついさっきな。また来るってさ」

宮沢の後ろについて資料室へ入ってきた勇が俺に気づく。

「お兄ちゃん、毎日来てるんだね。もしかしてヒマヒマ星人さん?」

「あのな……おまえもここんとこ毎日来てるだろうが。それに夏休みもあと一週間しかないんだぞ。もう宿題は終わらせたのか?」

「お兄ちゃんは終わったの?」

「質問に質問で返すな、って教わらなかったのか。俺は宿題免除だ」

「そうなの?」

宮沢に訊く。

「そうなんですか?」

宮沢にまで訊かれる。

「3年は受験とかで忙しいからな。宿題はないんだ」

適当に理由をでっち上げていると、なんだか虚しくなってきた。

「なんか落ち込んでるね」

「いろいろあんだよ、気にするな」

「じゃあ、コーヒー入れますね」

「うんっ」

勇が勢いよく席につく。

アイスコーヒーを飲みながら少し話をした後、勇は元気に資料室を出ていった。これから友達と遊ぶ約束をしているらしい。しかし、あいつも最初会った頃とは変わったな。

そして俺も、こうして頻繁に訪れてくる勇や男たちと同じように、ここに来たことで変わった。それはきっと、いいことなんだと思う。

「春原が木刀を五本も六本も買ってくもんだからさ……」

「ふふ、春原さんらしいですね」

勇が帰ってからはそれ以上誰かが来ることはなく、宮沢と他愛ない話を続けていた。

不意に、緩やかな風が入ってくる。宮沢の亜麻色の髪が風を受けて軽く揺れた。

「だいぶ涼しくなってきたな」

「そうですね」

窓の外に目をやると、いつの間にか日差しの色が変わっていることに気づく。日は傾き、資料室の中もオレンジ色に染まってきていた。

うだるような暑さも、幾分和らいできたように感じる。

「よし、日も暮れてきたし、そろそろ出かけるかっ。ふたりで」

言葉の勢いに任せて席から立ち上がる。なんだか「ふたりで」を強調しているようで、自分でもおかしかった。

「はいっ、出かけましょう。ふたりで」

宮沢も俺に続いて笑顔で席を立つ。わざわざ俺の言葉に合わせてくれるところが宮沢らしかった。

資料室の戸締まりを済ませると、眩しいくらいのオレンジ色に染まった景色の中をふたり並んで歩く。

やべぇ、どこに行くかまだ決めてない。

これからどこに行こう?

そんなことを考えながらも、俺の足取りは弾むように軽かった。

――終わり。

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感想などをお題箱で伝えてくれたら嬉しいです!

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後書き

暑い時に暑い話を考えたり書いたりするのは精神的によくないことがわかった、そんな真夏の日々でした。

そんなわけでゆきねぇのお話でしたが、いつの間にか千百のかさぶたを持つ男や、勇の話も混ざってました。蛭子については、和人との関係を自分なりに想像してみました。有紀寧が初対面の朋也を蛭子とごっちゃにした描写が想像の始まりとなってます。左胸の傷うんぬんはネタっぽいけど。

おまじないの効果が弱くなっていることについては「光見守る坂道で」が元となっています。書いてる途中まで時期的なことを失念していて、後で書き直したり。