もう一度、夢をみよう

「創立者祭まで、あと少しだね」

それが最近の、彼女たち合唱部の合言葉のようになっていた。

発足したばかりの合唱部は、生徒会に部としての活動を認められるための最低の人数である3人しか所属していなかったが、それでも創立者祭にかける熱意は他の部に引けをとらないものだった。

「歌も決まったし、あとは練習あるのみだね」

合唱部部長である仁科りえがそう言って頷いて見せた。

「りえちゃんは、歌が上手だから、私たちも頑張らないといけないね」

「足を引っ張らないようにしないとね」

彼女の友人にして、合唱部員である杉坂と原田がそう言って笑う。

この部室は笑顔が溢れていた。

合唱部という名前ながら、この部に所属する誰もが合唱については素人だったし、歌唱能力を含めた音楽の才能に恵まれた――本人は決して認めなかったが――りえはともかく、杉坂も原田も学校の授業やカラオケ以外には、歌については大した経験もなかった。

いくつもの壁が存在し、それらを乗り越えるのに彼女たちはかなりの労苦を要したが、それでもこの合唱部という場所に笑いが絶えないのは、りえという存在があるからだろう。

彼女と同じ空間にいるだけで、彼女が笑っているだけで、それだけで十分だった。

特に杉坂にとってはその笑顔を見ているのが本当に嬉しかった。

かつてたった一つの夢を追い続けていた頃の彼女と重なる笑顔だったからだ。

「じゃあ、次はりえちゃんの独唱を聞きたいな」

「あ、わたしも聞きたい。勉強になるからね」

りえははにかんだような笑みを浮かべて、静かに歌いだした。透き通るような、歌声だった。

そうして歌いながら、りえは今のこの状況を心から喜び、そして感謝していた。

音楽を楽しめる喜び、人に僅かでも感動を与えられる喜び、そして支えてくれる友人や恩師への感謝。

それらを歌声に込めて、りえはたった二人の観客のために歌った。

わずか一ヶ月前のあの日まで、事故により未来を奪われた彼女にとって世界は灰色で、この学校に何の意味も見出せずにいたのだということを思い出さずにはいられない。

それは、運命的な出会いだったのだろう。

幸村という老教師が教えてくれた、音楽のすばらしさ。

彼女はそれを確かに知っていたはずなのに、バイオリニストという未来を失ってしまった時から、思い出すことすら拒否し続けてきたことだった。

幸村はりえに、そのしわがれた声でもって、音程もリズムも微妙にずれた歌声を披露した。

技術的には決して巧いとはいえない彼の歌声に、だがりえは確かに心を動かされた。

そのとき、彼女は再び夢を見ようとする意思を持てたのだ。

そしてその夢に向けて行動することができるようになったのだ。

そんなりえの思いを相談された杉坂は、一瞬の迷いすらなく親友の夢を共に追いかけることを誓った。

2年生になってから多少話をするようになった原田は、りえの過去をまったく知らなかったが、それでも面白そうという理由で手助けしてくれることになった。

歌いながら、りえはふたりの友人を等分に眺めた。

同じように目を瞑り、真剣に歌声に耳を傾けてくれている。

それは確かに嬉しいことだった。

けれども、まだ何かが欠けたままだということを、りえははっきりと自覚していた。

それはきっと、自らの部屋の片隅に雑然と置かれた、事故にあうまでの彼女の人生そのものともいえたはずの、あの忌まわしい日からずっとケースに仕舞われたままのバイオリンや楽譜やそういった物が、静かに、だがはっきりと示していることなのだ。

まだ傷は癒えてはいない。

ただ見えなくなっている、というよりも見ないようにしているだけでしかない。

杉坂はバイオリンの話をまったくしなかったし、りえも原田に自らの過去を一切話さなかった。

かつてまばゆいばかりの数々の色の染められていた世界は、多少色づき始めたとはいえ、まだ限りなく灰色に近かった。

だが、急ぐことはない。

創立者祭を順調に終えることができたならば、その時にこそ話せるような気がしていた。

あるいは、秋に行われる学園祭まで待たなければならないかもしれないが、それでも、いつかは乗り越えられるはずだと、そう思っていた。

あの事故から変わってしまった人生の未来を受け入れる、そのときがいつかやってきてくれることを、彼女は信じていた。

やがてりえの独唱が終わりに近づいてきた頃、部室の扉がノックされた。

コン、コン

その音に最初に気づいたのは、歌っていたりえだった。

歌を止めて、扉を見やる。それでようやく他のふたりも、扉から聞こえる音に気づいた。

「誰だろう?」

原田が不思議そうにわずかに首をかしげて扉を見つめた。

りえは扉に向かって歩き出しながら、壁に掛けられた時計を見やった。ほとんどの部活が活動をはじめて、それほど時間の経過していない頃だった。

もともと来客のほとんど無いこの部室において、扉がノックされることはまれであったし、その数少ない来客もたいていは顧問の幸村か、そうでなければ幾人かの限られた友人くらいのものだったから、原田の疑問も、もっともなことだろう。

りえも同じ疑問を抱きながら、ゆっくりと扉を開けた。

そこには見知った女生徒が立っていた。上級生で音楽部に所属する、田井翠(みどり)。

「こんにちは、仁科さん」

「翠先輩、こん……」

りえは笑顔で挨拶をしてきた翠に、同じように挨拶をしようとして、それ以上言葉を発せられなくなった。顔が急速にこわばっていくのが分かるが、それをどうしようも出来なかった。

ここから逃げ出さないだけ、まだましなのかもしれない。まるで他人事のようにそんなことを思う。

幸村のしわがれた歌声を聞く前ならば、間違いなく逃げ出していただろうから。

それでもりえは無意識のうちに右手のこぶしを握ったり開いたりしていた。

それはつい最近までの彼女の癖だった。もう二度と元には戻らないと医者に告げられた握力が、いつかまた戻るかもしれないと考えてのことだった。

不慮の事故により失われた、バイオリニストという未来の可能性の1つを、もしかしたら取り戻せるかもしれない、それは希望と言うよりも夢想に近く、だからこそ幸村のしわがれた、技術的には決して巧いとはいえない彼の歌声に音楽のすばらしさを再び教えてもらうまでは、決してなくならない癖だったし、幸村の歌声を聞いてからは滅多にしなくなったはずの癖だった。

けれども、りえが顔を強張らせたのは、翠がいることではない。むしろ彼女は恩人なのだ。合唱について分からないことをいろいろ教えてもらったり、相談に乗ってもらったりしてきたのだから。

原因は、目の前の先輩が片手に持っているものだった。

世界から急速に色が奪われていくのを、りえは絶望に似た思いで感じていた。

「どうしたの、りえちゃん」

「りえちゃん?」

杉坂と原田が固まったように動かないりえを心配して、彼女の脇までやってきて、そして杉坂は表情を曇らせた。それからはっきりとわかる非難の眼差しを翠に向ける。

「それ、バイオリンですか?」

杉坂が向けたその厳しい視線の意味が分からず、翠が困惑した表情を浮かべたとき、原田が不思議そうに翠が手に持つものを指差して尋ねた。それはバイオリンケースだった。

「うん、そうなのよ、原田さん」

困惑した表情を引っ込めて、翠は、中に入らせてもらってもいいかな、と尋ねた。

「……あ、はい……どうぞ……」

りえはかすれた声で、それだけをようやく口に出来た。笑顔を浮かべようと努力していていたが、ほとんどうまくいっていないことが自分でも分かっていた。

そんなりえを翠は訝しげに見やった。

翠はりえとの付き合いはそれほど長くは無いが、りえのこれほどまでに表情の乏しい顔を見たことが無かった。能面という言葉が相応しいのかもしれない。

辛うじて浮かべられた笑顔は、作り笑顔にすら程遠く、出来損ないの人形が、見様によっては笑っているように見えなくもない、そんな風に見えた。

そのりえの隣で、杉坂が睨み付けるように見ていた。

杉坂は確かに気が強いが、本当は優しいことを翠は知っていたし、彼女がこれまで合唱部を訪れても、そんな視線で迎えられたことは一度もない。だからこそその視線の意味が分からなかった。

ただひとり、原田だけがいつものように笑顔で翠を受け入れてくれている。だが、彼女もりえと杉坂の態度を見て、状況をまったく理解できていないようだった。

そういえば、りえと杉坂は幼い頃からの友人だと以前聞いたことがあった。原田は今年に入ってからの友人だということも。

翠は教卓の上に静かにケースを置くと、3人を見回して言った。

「これね、音楽部の倉庫から出てきたんだけど、何年も放置されてたみたいであちこち傷んでいてね。それに価値が分からなくて、もし大事なものだったら持ち主を探し出して返してあげたいんだ」

うちの部にはバイオリンに詳しい人がいなくてね。そう言って笑う先輩に対し、りえはもはや笑顔を浮かべる努力すら放棄し、暗い視線をバイオリンケースに移した。

どうしようもなく逃げ出そうとする体を、意志の力で押さえつけて、どうにかその場に踏みとどまり、握力のない右手のこぶしを精一杯握りしめる。

どれほど力を込めようと、爪が掌に食い込むことも、痛みを感じることもなく、握っているという感触すら曖昧な右手に視線を落としながら、りえは瞳から滲み出そうになる涙を、必死で堪えていた。

涙を流してしまえば、今まで築き上げてきたものが音を立てて崩壊するだろうことを、意識の範疇の外で理解していたのかもしれない。

「……先輩」

翠を睨み続けていた杉坂が、なんとか怒りを隠そうとしながら口を開いた。

「どうして、り……合唱部に、それを……?」

りえちゃんに、と言いかけてすぐに言い直す。

「仁科さんが、バイオリンを習っていたことがあるって、聞いたからなんだけど……」

「どうして……」

それ以上言葉を続けることができず、あるいは平気なのかもしれない、自分が抱いている、先輩にとっては理不尽だと分かっている怒りは無用なものかもしれない、そうであってほしいと願いながらりえに視線を移したが、予想通りというべきか、自らの右手を見つめ続けるりえの顔からは血の気が引いているのがはっきりと見て取れた。

奥歯をかみ締めた。ぎっと鳴るのが分かる。

せっかくここまでこれたのに! 杉坂はそう思わずにはいられなかった。

幸村の歌と出会うことで、合唱という新たな夢を見つけたりえの、かつて見ていた夢のかけらが目の前にある。

そして杉坂の前にいるりえの姿は、去年の彼女と重なるものだった。

目標を失ったままこの学校に入学し、ただ漫然と日々を送るだけの彼女の、滅多に笑うこともなく、表情も乏しかったその姿は未だに脳裏に焼きついて離れないでいる。

どれほど励まそうと、彼女はその励ましを受け入れることはなかった。ひとりでいることが多く、音楽の話題には決して参加しようとせず、また音楽の授業は最低限の出席率を維持する程度にしか受けなかった。

りえは音楽と言うものを徹底的に避けていて、誰とも関わろうとしなかった。

彼女はもしかしたらあのときの状態に戻ってしまうのではないか、そんな不安が心を支配する。

「りえちゃん……」

杉坂は思わず、りえの力なく握り締められた右手を、両手で優しく包み込んでいた。

この場でできることなどたかが知れているが、それでも何かをしたくて仕方がなかったからだ。

りえはその手に気づいて、ゆっくりと視線を上げた。

目の前には、親友の顔があった。

心配そうに見つめてきていた彼女は、少しだけ潤ませた瞳を向けていて、わたしがついているから、そう訴えているようにも思えた。

創立時から合唱部には幾つもの壁が存在していたが、その壁にぶち当たるたびに杉坂はりえの背中を押し続けてくれた。

「わたしがついてるから」

その言葉に、どれほど救われただろう。

杉坂がいなければ、合唱部は創立者祭に参加することも出来なかったに違いない。

例え杉坂以外の誰かを部員としていたとしても、それは人数をそろえたという以上の意味にはなりえなかったはずだ。

その事実に気づいたとき、灰色に染まってしまった世界が、少しだけ色を取り戻したようだった。

だからだろう。りえは瞳の端に涙を浮かべながらも、笑顔を浮かべることが出来たのだ。

少しだけほっとしたように、杉坂も笑ってみせてくれた。

「ああ、そうだ。原田さん」

そんなふたりに気づかず、思い出したように翠が口を開いた。

「頼まれてた声楽の本だけどね、やっと手に入ったんだ」

「あっ、そうなんですか!」

原田はその言葉を聞いて両の手のひらを勢いよく合わせて小気味良い音を立てさせた。

彼女が三人目の合唱部員として活動を開始して間もない頃、部長であるりえ、その彼女を精一杯後押しし続ける杉坂の、せめてふたりの足を引っ張らないようにと、しばしば合唱部を訪れては合唱について相談を受けてくれていた翠に、声楽の本を頼んでいたのだった。

「県立図書館で、ようやく借りることが出来てね」

電車で行かなければならないような図書館まで出向いて探してくれたことに、原田は感謝した。

「今、音楽部室においてあるんだ。取りに来る?」

「はいっ」

そう返事をした原田に頷き返し、翠は身を翻した。原田もそれに続く。

「すぐ帰ってくるから」

原田は、部室に残されたふたりの視界から姿を消す直前に、そう言い残して、出て行った。

翠と原田がいなくなって、急に静まり返った合唱部室の中で、杉坂は視線をバイオリンケースに向けた。

それは親の仇を見るような瞳だった。

教卓の上に置かれたそれは、りえに過去を思い起こさせるには十分すぎるものだったからだ。

杉坂の脳裏に、ふと過去の映像が呼び起こされた。

それは事故に会う前日、中学校の音楽室で杉坂のためだけにバイオリンを弾いてくれた、親友の姿だった。

あの時の彼女の、バイオリンが弾ける喜びとその奏でる音色に満足した笑顔、そして格好いいと素直に思えた演奏する姿は、はっきりと覚えている。

その演奏は、杉坂にとっては、りえが親友のためだけに弾いてくれる、おそらく最後の機会になるはずだった。

りえは中学卒業後、外国への留学が決定していたし、その後もいつ日本に帰ってこれるかさえ、わからなかったからだ。

「杉坂さん」

そのとき、杉坂の耳に、親友の声が届いた。

「ごめんね……ありがとう」

りえは、目の端に僅かに涙を浮かべつつも、小さな、本当に小さな笑顔をそれでも見せて、そして杉坂の両手に包まれていた自らの右手を、そっと外気に触れさせた。

「……ううん、いいの」

杉坂は包み込んでいた親友の右手を失って、宙に浮いていた自らの両手を一瞬だけ凝視し、それから両手を重力に従わせて体の横に戻しながら、なんとか笑顔を浮かべて、短く答えた。

「……わたしね」

りえは、原田の遠ざかっていく足音を聞きつつ、杉坂に言った。

「たぶん……怖いの」

黒いバイオリンケースの表面を撫でる。とても懐かしい感触がした。一年以上前に永遠に失われてしまった未来の可能性。

「怖い?」

「うん……」

杉坂の言葉に、小さくうなずく。

「あの頃のように、弾けないから……最後に、杉坂さんに聞いてもらったときのように……」

「……だったら」

杉坂はバイオリンケースの取っ手に手を掛けると、それを握り締めた。

「弾かなくてもいいじゃない。りえちゃんにはもう歌があるし、合唱部もある。わたしや、原田さん、それに幸村先生も……だから」

勢いよくバイオリンケースを持ち上げる。

ケースに収められた弦楽器が、くぐもった小さな悲鳴を上げた。

そうだ。りえちゃんにはバイオリンなんかなくてもいいはずだ。

悲しい過去を思い出させるだけの、それだけのものはいらない。

それでもりえちゃんは優しいから……翠先輩のために弾こうとするだろう。杉坂はりえのそんな姿だけは見たくはなかった。

「これは、先輩に返してくるから」

そう言って勢いよく歩き始めた杉坂は、だがその意思に反して数歩の歩みで止まってしまった。

りえが杉坂の前に立ち、そっとバイオリンケースに手を伸ばしたからだ。

「りえちゃん……?」

戸惑ったように見つめてくる杉坂から、りえは静かに笑ってケースを自らの腕の中に移動させる。

「ううん、違うの」

それから優しく、宝物でも扱うかのように教卓に戻した。

数瞬の間、りえはそのケースを見つめて、それから親友に視線を向けた。

「わたしには歌があって、合唱部もあって。それに杉坂さんや原田さん、幸村先生もいて。だからね……怖いけど、弾いてみたい、そう思えるの」

その声に迷いが無いといえば嘘になる。だが同時にはっきりとした決意が込められていることもまた事実だと、杉坂は感じずにはいられなかった。

「そしてね、杉坂さんにも、原田さんにも聞いて欲しい。下手だとしても、拙くても。それでも聞いて欲しい。そうすることで、乗り越えられるような気がするの……あの事故のことを。二度と握力の戻らない右手を」

ひとりなら、挫けただろう。

そもそも、バイオリンを再び手に持とうともしなかったはずだ。

けれども、今はひとりではない。

だから、あるいは今がそのときなのかもしれない。

あの事故から変わってしまった人生の未来を受け入れる、そのときなのかもしれない。

支えてくれる友人たちがいるのだ。

わたしのために、同じ夢を追うことを一瞬の躊躇いもなく頷いてくれた親友がいるのだ。

面白そうという曖昧な理由で、声楽の本まで借りて、努力しようとしてくれる友人がいるのだ。

だから、怯えることなんか、ない。

りえはバイオリンケースを静かに開けた。

わずかに埃のにおいが鼻を突いたが、その直後には懐かしい匂いがりえの記憶を呼び覚まそうとする。

小さく頷き、それからバイオリンを恭しく取り出し、慎重に左手に持ち直して、かつてそれが夢の欠片ではなかった頃にしたように、ゆっくりと構えた。

少しぎこちなく、思う。

けれども細かいことは忘れてしまったようで、実のところ体は決して忘れていない事に気づく。

杉坂がケースから弓を取り出し、りえに渡した。

それを受け取った右手がはっきりとわかるほどに震えていた。

悲しげで、心配そうで、辛そうに見つめてくる親友に、りえはなんとか笑顔を返しながら、震える弓をそっとバイオリンに当てた。

軽く目を閉じて何度か深呼吸をする。

脳裏にかつての自らの姿が思い出された。

事故の前日、杉坂のためだけに弾いた、最後のバイオリン。

彼女にとって、最も上手く出来たと思えた演奏だった。それはきっと、舞台の上から誰とも分からぬ人々に向けて演奏するときとちがい、大好きな親友に向けての演奏だったからだと、いまさらながらに思う。

バイオリニストとしての夢がそれほど非現実的な話ではなかった頃、りえの周囲には多くの友人がいた。

だが、彼女からその夢が奪われたとき、残ってくれたのは杉坂ただひとりだけだった。

彼女がいてくれて、良かったと心の底から思う。

はからずも彼女のためだけの演奏が最後になってしまったことも、それでよかったのだと、今なら思えた。

そして、もう一度弾くバイオリンを、杉坂に聞いてもらえることも。

気づくと、右手の震えは止まっていた。

最後にもう一度深呼吸をして、弓をゆっくりと滑らせていく。

幼い頃に練習を始めたばかりのように、滑らかとは程遠く、ぎこちない音ではあったが、それでもはっきりといくつかの音階を表現できた。

続けて、短い初心者用の音楽を奏でる。

上手く右手を動かせないのが、もどかしいけれども、それでも奏でることの出来た懐かしい音に、いろいろな感情が沸き起こる。

その原因は、感傷なのかもしれないし、あるいはただ単に懐かしいだけかもしれない。

だがその沸き起こる感情は、後悔でも、諦念でも、絶望でも、決してなかった。

そしてりえにとっては、それで十分だった。

数分程度の演奏を終えて、りえは弓をバイオリンから離し、それからゆっくりと息を吐いた。

「杉坂さん」

再び目を開けて、まだ悲しげに見つめる親友に、今度は作り笑顔ではない笑顔を向けた。

ふと視線を巡らせば、部室の入り口にいつのまにか帰ってきていた原田がいた。

彼女の腕の中には、大事そうに抱えられた本があった。

それが彼女が先輩に頼んでいた声楽の本だと気づき、ごく自然にりえは微笑を浮かべた。

「仁科さん、バイオリン弾けるんだ」

驚いて見つめてくる原田に、りえは頷いて見せて、それから弓を静かに弦に触れさせた。

今日はりえにとって、忘れられない日になるだろう。

彼女は静かにバイオリンを構えると、先ほどよりも滑らかで美しい音楽を、奏ではじめた。

そして、部屋の片隅に置かれたままのバイオリンを、もう一度弾いてあげたいと、心からそう思えた。

過去を振り返るためではなく、もう一度夢をみるために。

世界はもう、灰色ではなかった。

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あとがき

はじめまして。熊野日置と申します。

読んでいただいてお分かりになるかどうか分かりませんが、ことみシナリオにおいて、バイオリンの音を聞いたことみが合唱部室へ走っていくその直前を描いた、仁科りえSSです。

ここまで読んでいただいた方がおられましたら、大変にありがたいと思います。

半年ほど前のゲームの記憶を思い出しながら書いたので、ゲームの設定や描写と違うところがあるかもしれないです。それはご容赦のほどを。