ふたりはいっしょ

杉坂を乗せた電車が懐かしき情景を辛うじて残すその駅に滑り込んだのは、彼女が片手に持った時刻表よりも1分ほど遅れた頃だった。

「やっとついた……」

彼女がこの町に住んでいたのは、今からもう4年も前になる。そのころにはすでに開発の波が少しずつ押し寄せてきていたけれど、今ほどはっきりと瞳に映る情景を変えてはいなかった。

もちろん、時々この町には帰ってきていたし、両親や親友、懐かしき友人たち――より正確に言うならば先輩たち――にも顔を見せてはいた。

親友である仁科りえとは幼馴染といってよい仲だった。それがどのような定義であるにしろ、杉坂にとってりえはかけがえのない存在で、だからこそ彼女がかつての夢の、少なくともそのかけら程度であっても手にしたことをうれしく思っていた。

次の目的地へと向かう電車を横目で見送りつつ、杉坂はホームから改札へと向かう。その途中で車内で飲み干したお茶が入っていたペットボトルをごみ箱へと投げ捨て、自動改札をくぐった。

「すーちゃんっ! おかえりっ」

すぐそこにその親友の姿があった。

「りえちゃんっ!」

待ってくれていたりえに杉坂は抱きつきながら、ただいまっ、と声を出した。

ゆっくりと体を離しながら、

「久しぶりだね、すーちゃん」

「うんっ! それにこれからはずっとこっちにいられるからさ」

大学を卒業したのがつい数日前のこと。就職先はこの懐かしき故郷に決めていた。

「でも、まだ住むところ決めてないんだ」

杉坂は苦笑気味に口にする。実家に住むことも考えたけれど、社会人になるからには親元を離れたい気もしていた。

「そうなんだ……」

りえが心配そうに杉坂を見つめた。

「うん、だからさ、りえちゃん。不動産屋さんをいくつか見て回りたいの。付き合ってくれる?」

「だったらさ、すーちゃん」

りえはほんのわずかの間思考を巡らせてから、一緒に暮さない? となんでもないことのように提案した。

「一緒にって、一人暮らししてるりえちゃんの部屋でってこと?」

杉坂はそう言ってから、でもどうして? とりえに尋ねた。

「あんまり理由はないかも。ただ今住んでる部屋がね、一人で暮らすにはちょっと広いから。それに、ひとりだと寂しいときもあるから」

もし一緒に暮らせたら、家賃も半分だし。りえは冗談ぽく言って笑う。

その笑顔が杉坂の心に深く入り込む。

その笑顔が好きだった。ずっとずっと好きだった。ほんの一時期、いまとなってはそう言えるけれど、その渦中にいたときには彼女の笑顔などもう二度と見られないのだと半ばあきらめてしまった時さえあったのだから。

一度は閉ざされたかに見えた未来、バイオリンという彼女自身の半分とさえいえた弦楽器を失った後、いかなる希望さえも見出せないりえの表情は今でも覚えている。

もう何年も会っていないけれど、もう一人の友人と共に合唱部を立ち上げ、そしてその部室で偶然に手にしてしまったバイオリンと、それがもたらした奇妙な縁、そして新たな友人たち。いまでも交友はつづけられていて、りえと杉坂にとってはその弦楽器がもう忌まわしい過去を象徴するだけのものではなくなったと信じられるだけの演奏会が時折行われるようになっていた。

もっともそれが独奏会ではなく、もう一人の演奏者がいることがりえにとっては大事なことなのだけれど、聞く側にとってはもう一人の演奏はあまりに独特なだけに、いろいろ言いたい部分もあるが、それは特製の耳栓でなんとか我慢することにしていた。

そのもう一人の演奏者の演奏を思い出して身震いし、そしてそんな彼女の演奏を聴きながら眠ることのできるその彼氏――もう婚約者だけれど――を尊敬してしまう。

そのことを口にすると、りえは、岡崎先輩とことみ先輩に悪いよ、と笑っていた。

りえは今はよく笑う。夢が手の届く夢であったころと同じような、それでいてあのころとは違う、笑顔を浮かべる。

だから、その笑顔には抵抗する気はなかった。それに、その笑顔を見ると胸の奥が熱くのなるのだ。それをなんという言葉で表現するのが適切か、杉坂はずいぶん昔から知っていた。

「うん、いいよ」

杉坂は笑って頷いた。思わず踊りだしたくなる心の猛りを何とか抑えつつ、もう一度、もちろんっ! と、うなずいた。断る理由など髪の毛の先ほどもない。絶対にありえない。

これはきっと天の配剤だ、と杉坂は思う。

「やった、断られたらどうしようって思ってたんだ」

「そんなわけないじゃない。わたしはりえちゃんのそんなお誘いを断るなんてっ」

そんなことするはずがない。やっと一緒にいられるのだ。大好きなりえと文字通り寝食を共にできるのだ。本当はこの場でおもいっきり歓喜の声を叫びたかったが、そんなことをするとりえが引いてしまうことを知っていたから、敢えて自重する。まだ先は長いのだ。りえが言った言葉が真実で、気の早いエイプリルフールなどといったふざけたことでない限り、短くても数年間は共に暮らせるのだ。そう同じ屋根の下で。

同じ屋根の下。なんてすばらしい響きなんだろうか。りえの寝顔も、朝ごはんを食べているときの表情も、お化粧をしているときのりえも、風呂上りのりえも、そして時々はお酒に酔ってしまったりえの上気した顔も。すべて見ることができるのだ。

もちろん寝るときも同じ。できれば同じ部屋で寝たい。まるで新婚さんのように、同じベッドなんていいよねっ!

りえちゃんの匂いをかぎながら寝られたら、りえちゃんのにおいで目が覚めたら。りえちゃんに抱きついて、ずっと離さないからねって言って。気持ちいいんだろうな、りえちゃんと一緒に寝られたら。柔らかい感触の髪も、すべすべの肌も、甘い吐息を漏らす唇も、全部全部……っ

「……じゅるり」

「すーちゃん、よだれが出てるよ?」

「はっ……!?」

「どうしたの、おなか減ってるの?」

「えっと……」

おなかは余り減ってないけれど、でも今考えていたことを口にすれば、りえちゃんは前言撤回を言い出すかもしれない。それだけは避けないと。

「うん、実は……ちょっとおなか減ったかも」

とりあえずそういうことにしておこう。杉坂は周囲を見回した。駅前もだいぶ変わってしまったけれど、まだ変わっていないものもある。駅から少し外れるけれど、懐かしいあの店にも行ってみたかった。

「じゃあさ、あのお店行こうよ」

「あのお店?」

「わたしとりえちゃん、それに渚さんも一緒にバイトしていたファミレスだよ」

「懐かしいね。うん、いいよ。行こう」

とっても懐かしい場所だった。杉坂にとってもりえにとっても。りえにとっては懐かしきかつてのバイト先、という程度の意味しかないかもしれないが、杉坂にとっては本質的には同義でありながら違った思い入れがあった。

「あそこの更衣室広かったよね。狭かったら下着姿のりえちゃんに偶然を装って抱きつけたかもしれないのにさ」

昔を思い出し、杉坂は小さな声で呟いた。不思議そうにりえが見返してくるが、何を言ったのかまでは気づいていないのだろう。きょとんとした表情でりえが尋ねてきた。

「すーちゃん、なんか言った?」

「う、ううん、ただあの制服可愛かったなって思い出して」

「そうだよね、可愛かったな。渚さんもよく声をかけられて」

「渚さんもそうだけど、りえちゃんもけっこう声かけられてたじゃない」

「そうだっけ……」

「そうだよ、バイトしていた期間は結局10ヶ月と17日だけだったけどさ、その間に出勤した時間が500時間余り、その間に声をかけられた回数は103回だよっ! 注文にかこつけて声をかけてきた男の数は、413回っ!」

「注文は誰だってするんじゃ……っていうかさ、どうやって数えてたの? すーちゃんがバイトに出ない日もあったよね。それに同じ日にバイトしてても、違う場所を任されていたこともあったような」

「そんなの、何の障害にもならないよっ! 同じ日にバイトしてたら、どれだけ離れててもりえちゃんをずっと見つめてたからねっ」

「……だから、すーちゃんがいるところでは仕事がたまっていたんだね」

小さくため息をもらしながらりえが苦笑気味に笑みを浮かべ、じゃあいっしょにバイトしてないときはどうしたの、と尋ねた。

「それは簡単だよ。ずっと見てたから。客としてさ」

「え、でも……わたし気付かなかったよ」

「見つからないようにしてたからね。何度りえちゃんに声をかけた男たちに制裁を加えようと思ったかっ」

胸を張ってそう言う杉坂に、りえは今度こそ大きくため息を漏らした。

そんなりえをよそに、杉坂は、今日は安心だけどね、と言って笑顔を見せる。

「今日は単なるお客さんだから、声をかけてくる相手なんているはずがないからねっ」

「もしいたらどうするの?」

「そのときはっ!」

杉坂が気合を入れた声を出す。

「いかなる相手でも全力で排除するだけだよっ」

「……はぁ」

りえが苦笑気味に笑う。考えようによってはこれ以上ないボディーガードということになるかもしれない。

それにりえは杉坂が嫌いではなかった。仁科りえという存在を大切に思ってくれていて、ずっとそばにいてくれたのだから。

彼女がいなければ今のりえはいなかった。高校時代の恩師である幸村でさえ、杉坂の代わりにはならなかっただろうし、その後の友人関係も成り立たなかっただろう。

朋也もことみも杏、椋、渚も、知り合っていたとしても、友人にさえなれたかどうか怪しいものだった。

「それじゃ行こうか、りえちゃんっ」

だからりえは、杉坂の手をそっと握った。幼き日初めてお互いを認識した日にそうしたように。

りえがすべてを奪われたあの時、ずっとりえの手を握ってくれていた親友のように。

そしてりえが再び夢を見ようとした時、何のためらいもなく手を握ってくれたように。

「うん、りえちゃんっ」

嬉しそうに親友は笑った。

「それでさ、ファミレスの後、いくつかお店回ろうね。買いたいものがあるから」

「買いたいものって? 荷物は実家に送ったんでしょう?」

「うん。だけど、一緒に暮らすためには必要なものが足りないんだっ」

「なに……?」

「な・い・しょっ」

「気になるよっ」

「その時のお楽しみっ」

杉坂は笑顔を浮かべてそう言いながら、りえが住んでいる部屋にダブルベッドが入るかな、と考えていたのだった。

(寝る時も、ずっといっしょだからね、りえちゃんっ!)

「……なんだか寒気が……」

りえが小さくつぶやく。

その寒気が意味することを彼女が知るのは、この何時間か後のことだった。

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あとがき

最後まで読んでいただきありがとうございます。

このSSは杉坂を暴走させてみたかったというだけの内容です。

もし楽しんでいただければ幸いです。

最後に、このSSを快く掲載することを許可してくださったとらふりおんさん、本当にありがとうございます。