おれは風が吹く大地にいた。

風は潮の匂いがした。北の岬から吹いてきているのだろう。

ここからだと地平線が近く見える。その空と海の狭間に消えゆく夕日が、周囲の景色を琥珀色に染めていた。

家から歩いて三十分ほどの場所にある大きな花畑。

そこを抜けた先……小高い丘の上に、小さな墓場があった。

「……」

おれは手に持った花を墓前に供えて、手を合わせる。

敦子は――おれの最愛の妻は今……おれたちが生まれ育った故郷の大地で静かに眠っていた。

仕事帰りのこの時間にここを訪れるのが、おれの日課だった。

目を閉じ、過去に思いを馳せる。

ここはおれにとって旅立ちの地。

あの日、世界は悲しい色に満ちていた。

すべてが絶望の闇に覆われたおれに差した一筋の光……すべてを失ったおれに残された最後の希望……。

おれと朋也……父と子の、長い、長い旅の始まりだった。

CLANNAD 10years after ~直幸~

おれが生きる意味は、家族の――敦子の中にあった。

自分の力だけで愛する人を守り、共に生きていく……それがおれの支えであり、幸せだった。

ふたりで生きることは、ひとりで生きるよりもずっと幸せなことだった。

ひとりでは苦しいことも、ふたりなら半分で済んだ。喜びを分かち合い、楽しいことは倍になった。

そんな生活の中で、朋也が生まれた。

おれたちの息子……新しい家族の誕生に、おれの幸せはさらに大きくなった。

だが、その時のおれは気づいていなかった。

幸せが大きければ大きいほど、それを失った時の悲しみも大きくなることを。

敦子と共に暮らし始めて五年目の春。

四月だというのに季節外れの大雪が降った。

町を白く覆った雪景色が視界を遮り、仕事もままならない日だった。

早めに仕事を切り上げて帰宅したおれを待っていたのは、絶望だった。

それはおれにとって、この世界が終わるよりもつらい現実だった。

スリップによる玉突き事故。

誰が悪いとも言えないその状況で、おれは憤りをぶつける対象もなく、ただただ絶望した。

一時は車や道路という存在そのものを憎んだが、どうしようもなかった。

そんなことをしても敦子は帰ってこない……。

心ではそうわかっていても、崩れ落ちる精神を支えることは難しかった。

そこでおれは、つらい現実から目を背けた。

酒、タバコ、賭け事……それらに逃避している間だけは、現実を忘れることができた。

おれは弱い男だったが、それでもまだすべてに絶望するわけにはいかなかった。

敦子がおれに残してくれた最後の希望……朋也がいたからだ。

おれはあの日、この場所で新たな誓いを立て、朋也の手を取って歩き始めた。

こいつだけは、自分の手で育て上げてみせる……。

それがおれに残された父としての最後の仕事であり、最後の支えだった。

朋也との二人暮らしが始まった。

そしておれは男手ひとつで子を育てることの大変さを身をもって知ることになった。

仕事は安定せず、収入も不安定だった。

そんな中、父ひとり子ひとり、朋也とふたり寄り添って暮らした。

それでもやはり朋也にとって敦子が――母がいないことは大きな影を落としていた。

やがて反抗期に入り、朋也はおれの言うことに大きく反発するようになった。

つらい現実から逃げていたあの時のおれには朋也の現実を理解してやることができず、言い争いの日々が続いた。

それでも、ふと現実を見つめれば、そこに希望はあった。朋也という最後の希望が、おれの崩れ落ちる精神を支えてくれた。

だがおれは……アルコールと、おれの弱さのせいで、その最後の希望まで失うことになる。

発端は身だしなみがどうとか、靴の並べ方がどうとか……そんなくだらないことだった。

取っ組み合いの喧嘩になって、おれは朋也に怪我を負わせたのだ。

その日以来、朋也は部屋に閉じこもって出てこなくなった。

いくらおれが呼んでも部屋から出ようとはせず、医者を連れてきても無駄だった。

そして朋也は……おれのせいで未来を失った。

敦子を失い、朋也の未来をも自分の手で閉ざしてしまった。

最後の希望の光を失ったおれの目には、もう何も映らなかった。

もう何も見えない。何も聞こえない。

おれは役に立たなくなった目を閉じ……この世界での意識を閉じた。

∽∽∽

"彼"は遠い世界を見ていた。

その世界には、何もなかった。

何も生まれず、何も死なない……終わってしまった世界。

そんな世界を、彼は漂っていた。

流れていく風景は変わることなく、どこまでも荒れ地が続いているだけだった。

そして彼もまた、この何もない世界をただ風に流されて漂っているだけだった。

流れる風景の中に動物が映ることもあった。

だが彼にとって"それ"はただ動く物であって、彼のいた世界の動物とは大きく異なるものだった。

こうして彼は、長い、長い間、この何もない世界を漂っていた。

ある時、流れる風景に変化が訪れた。

彼の漂う場所だけでなく、世界全体を白く覆っていく。

その幻想的な光景は、彼に痛みを伴う悲しみを感じさせた。

それは遠い日の記憶。

いつか遠い昔、あるいは遠い未来……異なる世界にいた頃の彼の記憶だった。

世界は、悲しい色に満ちていた。

真っ白に染まった世界に、ひとりの少女がうずくまっていた。

その少女を支えるようにして、一体のガラクタ人形が動いていた。

自分の倍以上ある少女の体を支えて前に進もうとしていた。

ぎぎぎ。

ガラクタ人形の体がきしみをあげる。

それは悲鳴なのか、嗚咽なのか、それとも慟哭なのか。

そのガラクタ人形の姿を見て、彼の心に大きな感情が湧きあがってきた。

だが世界を漂っているだけの彼には何もできない。

それでも彼は湧きあがってきたひとつの大きな感情をガラクタ人形に向けて弾かせた。

頑張れ。

……頑張れ。

そう彼は願った。

ただこの世界を漂っていただけの、見ていただけの彼に、初めて湧きあがった感情だった。

彼の祈りが通じたのか、不意にガラクタ人形の体が持ち上がる。

ガラクタ人形の体の下に、小さな動物がたくさんいた。

それらは力を合わせてガラクタ人形の体を支え、押し進めていた。

彼にとってはただ動く物でしかなかったそれらが見せた、"心"。

その光景が彼の心を大きく揺るがす。

その時、彼の見ていた景色も大きく揺らぎ始めた。

彼を照らすようにして、星の形をした光の柱が包んでいた。

そしてそれが、この世界で彼が見た最後の光景だった。

一際強い風が、彼を空高く舞い上がらせる。

彼の心を揺るがしたひとつの感情がこの世界での彼の意識を失わせ、長い眠りから目を覚ますように、彼の意識はもうひとつの世界に帰っていった……。

「なぁ、親父……」

彼の耳に、声が届く。

「そろそろ、休んでもいいんじゃないかな……」

それは忘れもしない、彼にとって最も大切な人の声。

彼はこれまでの長い道のりに思いを馳せた。

「もう……おれはやり終えたのだろうか……」

長い、長い旅の果て。

すれ違いの末に、父と子は再会を果たした。

***

おれは目を開き……意識を現在に戻す。

思いを馳せていた遠い記憶……。その頃の光景はすでに過ぎ去り、目の前にあるのは現実だった。

「……」

供えられた花の隣に立てかけられた木彫りを手に取る。

星の形をしたそれは、おれが息子からもらった唯一のもの……息子からプレゼントをもらう機会すら与えられなかった敦子のために捧げた、おれたちの宝物だった。

希望の星を手に立ち上がると、傾いた西日の光がおれを差し、思わず目を細める。

「……?」

眩しい光は丘の下のほうに向かって差し込んでいた。その先で、何かがきらきらと光っている。

なぜか気になったおれは、光差す先に向かって丘を下った。

「これは……」

花畑まで下りてきて茂みの中に踏み入ると、そこには壊れたおもちゃが落ちていた。

それはおれが小さい頃見ていたマンガに登場するロボットに似ている、手のひらサイズの人形だった。

「ああ……あの子のか」

ふと、夏休みに家へ遊びに来た孫が同じものを持っていたことを思い出す。

この場所にも遊びに行っていたようだし、たぶん汐ちゃんのものだろう。壊れているのはともかく、その割にはかなり古びているようにも見えるが。

おれは壊れた人形を拾い上げる。

どうせなら直してから返してあげよう。そういった細かい作業は昔から得意だった。

おれは敦子に改めて別れを告げ、夕闇迫る北の岬を後にした。

∽∽∽

少女はたくさんの光たちを見守っていた。

舞い上がる無数の光たち。

光たちが迷わぬよう、不幸にならぬよう、少女はずっと見守り続けていた。

少女は、この世界そのものだった。

彼女の存在なくして、この世界は存在し得なかった。

少女がここからいなくなれば、この世界もなくなってしまう。

彼女もそれがわかっていたから、この世界を……光たちを永遠に見守っていくつもりだった。

彼女がこの世界となって光たちを見守り始めてから、どれくらいの時が過ぎただろう。

時間という概念すら存在しないこの世界では、無意味なことだった。

何も生まれず何も死なない、終わってしまった世界。

そんな世界にも、少しずつ変化が訪れていた。

春が生まれ、光たちは踊るように舞い上がり始めた。

荒れ果てた大地に草木が生まれ、獣たちは草原を駆けまわった。

そして世界の果てに、ひとつの光が再び現れた。

"それ"は、ばらばらに砕けたガラクタに宿り……

再びこの世界に生まれた。

ガラクタ人形の姿を見て、少女は……世界は揺らいだ。

それは彼女が"人"であった頃の記憶。

遠い、遠い……温かな記憶だった。

世界となった今でも、少女は人の心を忘れてはいなかった。

ガラクタ人形が空に向けて……少女に向かって手を伸ばす。

今度こそ、君を助けに来たよ。

人形に宿った光の声は、世界に……少女の心に届く。

遠い日の記憶が、溢れるように少女の心に浮かんでくる。

それは彼女が、人としてこの世界で暮らしてきた頃の記憶。

温かい思い出だった。

望めば、帰れるのだろうか。

あの、穏やかな日々へ。

ガラクタ人形が伸ばした手……擦り傷だらけの手を、少女はじっと見た。

少女にとって、この世界でたったひとつの温もり。

いつしか……彼女は、それを、求めた。

……ただいま……

……パパっ……!

――終わり。

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感想などをお題箱で伝えてくれたら嬉しいです!

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関連SS

後書き

CLANNAD10周年記念SS第21弾、直幸アフターでした。直幸の話は難しいな。人によって感じ方が一番異なるところじゃなかろうか。

今作では直幸と幻想世界の繋がりについて書いてみました。本編で「私」と言っている直幸は精神的に抜け殻状態だと個人的には思ってるので、その間はバッドエンドの朋也みたいにこっちの世界の意識をほとんど閉じている、と想像しました。

途中から完全に幻想世界の話になっちゃってるけど、直幸が朋也から受け取った木彫りのヒトデと、汐シナリオでなくしたはずのおもちゃのロボットが、光坂で語られた汐の神隠しに関する重要なアイテム……と妄想していたので、その経緯とかを書いてみました。自分の脳内にしかないものを断片的に書いても伝わらないかもしれないけど、少しでも楽しんでもらえたら嬉しい。