「退院おめでとうございます、彩夏ちゃん」
「ありがとうございますっ」
看護師一同を代表して、女の子に花束を渡す。
夏の終わりの今日、一年の闘病生活を終えた彼女は日常生活に帰っていく。
皆に祝福されて笑顔になる彼女を見ていると、この仕事をしていて本当に良かったと改めて思う。
この町に、この病院ができてから今年で十年。
その長くて短い間に、私は学生だった頃には経験できない数多くのことを経験した。
新しい生命の誕生を祝い、病に倒れた人や怪我をした人たちが明日へ向けて生きていけるようになるための手助けをし、そして時には人の一生の最期を看取る……そんな、人の命と密接な関係にある場所。
その場所で数多くの人たちと出会い、接し、別れる……それを繰り返すうちに、私も看護師として成長したように思う。
昔から自分に自信が持てないでいた私だけど、これだけは自信を持って言えることだった。
♪CLANNAD 10years after ~椋~
「よかったですねぇ、彩夏ちゃん元気になって」
「そうですね……本当に」
病院の外に向かって遠く小さくなっていくその姿を見送りながら、満ち足りた気持ち――充足感のようなものに私たちは浸っていた。
普段はつらい仕事だけど、この瞬間のこの気持ちだけは絶対に他の仕事では得られないものだ。
「さて、仕事に戻りますかっ」
「ええ」
「……って、柊さんはお昼まだなんでしょ?」
「え? ええ、まだですけど」
「もう3時過ぎてるし、今のうちに食べてきてくださいよ。あとは私たちでやっておきますから」
「でも、まだすることが……」
「そう言って前もお昼抜いたことあるでしょ! ダメですよ、それじゃ。柊さんには及ばないけど私だって今年で五年目なんですから。ベテランですよ、任せてください!」
「う、うん。それじゃ、お願いします。あ、カルテの更新は忘れないでくださいね」
「はーい!」
腕をまくりながら元気に病院の中に戻っていく。
彼女の明るく元気な姿に励まされる患者さんは多い。
それは私には持ち得ない天性のものなのだろう。少し羨ましく思う。
けれど私は今の私以外の何者でもないし、努力しても彼女のようになれるわけではない。私は私らしく生きていこう。これまでも、そしてこれからも。
*
病院の敷地内にある、一本の大きな木。
その木を中心に、周囲を緑に覆われた小さな場所。
そこが私のお気に入りの場所だった。
いつものようにお弁当を持ってそこに辿り着くと、あまり人が寄りつかないこの場所に先客がいた。
「~♪」
大木にもたれかかるようにして女の子が座っていた。
目を閉じて、穏やかな表情で鼻歌を歌っている。
「……こんにちはっ!」
私の存在に気づいたからか女の子はゆっくりと目を開けると、それまでのおしとやかな印象をひっくり返すくらい元気な笑顔で挨拶をする。
「汐ちゃん……」
その子は私のよく知る、この場所とも縁が深い女の子……岡崎汐ちゃん。学生時代の友達の娘さんだ。
そういえば数年前、彼女と初めて出会ったのもこの場所だった。
彼女にとっても、この場所は特別なんだろうか。
「こんにちは、久しぶりですね」
私は汐ちゃんの隣に――私の名前の由来となった小さな木の近くに腰を下ろす。
「うん。あたしも久しぶりなんだ……ここに来るの。夏休みはずっと旅行してたから」
「旅行、ですか。そういえば日焼けしましたね」
「うんっ、小麦色。ワイルドでしょ?」
「あはは……」
ぐっとガッツポーズをとる汐ちゃんに思わず苦笑い。
お母さんとそっくりな顔立ちとは裏腹に、汐ちゃんはとても活発な女の子。まるで小さい頃のお姉ちゃんみたいだ。
「海にでも行ったんですか?」
「ううん、砂漠。すごく暑かった」
「……砂漠?」
旅行先としては聞き慣れない単語が急に出てきて思わず訊き返してしまう。
「うん、ピラミッドを見てきたの。すっごく大きかった」
両手を大きく広げて、汐ちゃんはその大きさを示してみせる。
ピラミッドって……エジプト? 世界旅行!?
「ラクダさんにも乗せてもらったよ。かわいかった。なべやお馬さんの背中と違ってすごく揺れるから最初はびっくりしたけど、すごかった」
「はぁ~……汐ちゃんはすごいですね」
子供らしく嬉しそうに夏休みの思い出を語る彼女だが、私はその話の内容についていけず変なため息しか出てこなかった。
そもそも私は馬にすら乗ったことがないから、ラクダとの違いはよくわからない。どっちにも怖くて乗れそうにないけど。
「でねでねっ、ずーーーーっと先におっきな湖があったの。あたし、最初は海かと思っちゃった」
「それってヴィクトリア湖ですか?」
「うん、そう! パパもママもわからなかったのに、椋さんすごーい」
「あはは……」
汐ちゃんの壮大な冒険談に耳を傾けながら、お弁当を広げて遅めの昼食をとる。
こんな時間だといつもは空腹の限界を突破していて逆に箸が進まなくなるけど、今日は味わって食べることができた。
お姉ちゃん直伝のトンカツは我ながら上出来だ。あの人もきっと喜んでくれているだろう。
やっぱり、ひとりより誰かと一緒のほうが食事だって楽しいよね……。
私は三日ぶりに訪れる今日の夜、家族で過ごす短い時間に思いを馳せた。
職業柄、どうしても生活は不規則になってしまう。一週間で日勤・準夜勤・夜勤とそれぞれ違う時間帯に仕事をするため、時間の感覚も休日以外の曜日の感覚も安定しない。
子供たちには寂しい思いをさせてしまって申し訳なく思う。それでも私なりに最大限の愛情を注いできたつもりだ。
私が及ばないところはお父さんやお母さん、お姉ちゃん、そして勝平さん……家族の皆の力を借りて、おかげで子供たちはまっすぐに育ってくれている。
「お母さーんっ」
噂をすればなんとやら。聞き慣れた息子の声がした。
「やっぱりここにいたっ!」
木々の間を駆け抜けて姿を現したのは、私の自慢の息子、俊平だ。
「どうしたの、そんなに慌てて。今日は木村くんと遊ばないの?」
「木村クンとはいつでも遊べるけど、今日はトクベツだから」
「特別って、何が?」
「ないしょ」
ぷいと可愛く顔を背ける。背けた先には汐ちゃんの笑顔があった。
「俊平くん、こんにちは」
「あ、汐お姉さん。こ、こんにちは……」
先ほどとは異なり、汐ちゃんがおしとやかに挨拶をする。
やっぱり年下の俊平相手だと、年上のお姉ちゃんらしく振る舞うのだろうか。俊平はそんな可愛いお姉ちゃんに顔を赤くしていた。
「俊平……汐ちゃんに見惚れるのはわかるけど、お母さんに用があったんじゃないの?」
「あ、そうだ! ねぇお母さん、今日は早く帰ってこれるよね?」
「ええ、たぶん」
急患がなければ、だけど。
「急なお仕事がなかったらね」
「急なお仕事があっても、ボクまってる」
「夜更かしはダメですよ」
「今日だけトクベツだから。今日だけだから。起きててもいいよね?」
普段そんなにわがままを言わないこの子が、珍しく食い下がってきた。
「……今日だけですよ」
「わーいっ! ありがとうお母さん」
両手を上げて喜ぶ俊平だったが、まだ何か言いたいことがあるのか、上目遣いで私を見つめていた。
「なぁに?」
「うん……それでね、今日はボクが梢のおむかえにいっていい?」
「そうしてくれるとお母さん助かるけど……ひとりで大丈夫?」
「ええっと……たぶん」
なんだか自信なさそうだ。
「あたしも一緒にいくから大丈夫だよ」
そこで横から意外な言葉が飛んでくる。
「汐ちゃんが? それは一緒に行ってもらえると安心ですけど……いいんですか?」
「うんっ、任せて!」
胸の前でぐっと両手を握って大きく頷いた彼女は……
「……ね?」
と、俊平にウィンクしてみせた。
「う、うん……」
汐ちゃんの可愛らしい仕草に、俊平の顔はトマトみたいに真っ赤になっていた。
「汐ちゃんと一緒なら、お母さんも安心かな。それじゃ梢をお願いね、お兄ちゃん」
「うんっ!」
話がまとまったところで、ちょうど私の昼食も終わった。かなり遅いお昼休憩の時間もそろそろ終わりだ。
「それじゃお母さんそろそろ仕事に戻るから、車に気をつけてね」
「うんっ」
「汐ちゃん、うちの子をよろしくお願いしますね」
「任せて!」
汐ちゃんはもう一度、胸の前でぐっと両手を握ってから勢いよく立ち上がった。
途端、その動きが止まる。じっと遠くを見つめているようだった。
「光……」
「えっ」
汐ちゃんが林――そう呼ぶにはあまりにも狭い場所だったが――の外を指差す。
急に駆け出した小さな後ろ姿を俊平とふたりで追っていくと、病院の裏手に出た。
「……」
無言で空を見上げている汐ちゃんに駆け寄る。
「急にどうしたんですか?」
「光が見えた気がするんだけど、気のせいだったのかなぁ」
「光?」
同じようにして、夕方が近づき地平線が少し赤らんでいる青空を見上げる。
今日は日差しも弱く、夏の終わりを――秋の始まりを感じさせる空だった。光と言うほどの西日も当たっていない。
「私には何も見えませんでしたけど」
「ボクも」
「うーん……あっ! 声……」
「えっ」
「声がするよっ、こっち!」
そう言って汐ちゃんはまた走り出す。
病院の裏口に入っていく後ろ姿を見て、声の正体に見当がついた。
「もしかして……おばけの声?」
「違うよ俊平。ここは産婦人科だから……」
赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。
廊下の突き当たりに汐ちゃんがいた。
その視線の先にあったのは、これまでに何度も立ち会ったことのある見慣れた――それでも新しい喜びを運んでくれる光景だった。
「赤ちゃん、かわいい……」
「ほんとう、すごくかわいいね、お母さん」
「そうね……」
私は無意識に自分のお腹をさすっていた。
まだ目立たないけど、そこには確かに生命の鼓動がある。新しい命が宿っているのだ。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます、看護婦さん」
喜びに沸く家族に声をかける。
こうしてまたひとつ……新しい生命が――新しい家族が、この町に生まれた。
――終わり。
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感想などをお題箱で伝えてくれたら嬉しいです!
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♪後書き
CLANNAD10周年記念SS第12弾、椋アフターでした。同時公開の杏アフター直前のお話です。
椋は看護師という未来が確定しているので、町に新しくできた病院に勤務していると想像しています。
そしてその病院の敷地内には『願いが叶う場所』が存在するため、今回は汐との繋がりも書いてみました。夏休みの期間内にちゃんと観光しながら世界を一周するのはいくら汐でも不可能に近いと思うので、毎年夏休みの間にいろんな世界を巡っていく……と想像しています。灼熱の砂漠を旅しながら夏休みの宿題もきちんとこなす汐ちゃんマジ完璧超人。でも自由課題の工作は出来損ないのヒトデみたいな形をした自作のピラミッドです。
さて、椋は本編でも結婚して家族になることについて、さらには子供を産むことについても言及されているので、子供の名前とかいろいろと苦心して想像した結果、CLANNADという物語の核心に近い立ち位置となりました。俊平も梢もふたりの子供としてはありがちな名前だと思うけど、名前を出さずに済む方法もほかにしっくりくる名前も思いつかなかった。