「ママさん……聞いてくれ。もう俺には居場所がなくなっちまった。帰る場所がないんだ……」

カウンター越しのいつもの席に座っていた常連のお客さんが、グラスを傾けてカクテルを一気にあおる。

いつも勝ち気なこの人が、珍しく弱音を吐いていた。

「今は苦しいかもしれません。それでも、すべては時間が解決してくれます。時間が経てば、いろんなことが好転していきますから。自分の中の……苦しい思いも」

「確かにそうかもしれねぇが……明日からも仕事には行かなきゃならねぇし……」

「苦しくても現実を見据えている……安浦さんは強いんですね」

「そんなこたぁねぇよ……俺は弱い男さ」

わたしは懐から一冊の古びた本を取り出す。

「……おまじないをしましょうか」

「おまじない?」

「安浦さんが明日からも前を向いて、強く生きていけるように」

「そいつはありがてぇ。ぜひ頼むよ」

「ええ。では一度深呼吸して……それから顎を引いて姿勢を正してください。そして心の中で『マエヲムイテ』と三回唱えてください」

「ありがとう、ママさん。おかげで元気が出たぜ」

「それはよかったです」

「今度は菓子折りでも持ってくるよ」

「いえいえ、そんなに気を遣わないでください」

本日最後のお客さんを見送って、店の扉を閉める。

「マエヲムイテ、か……」

ひとりになると、思わず独り言が漏れた。

さっきのおまじないは、以前わたしが自分にかけていたものだった。

一年に一度のその日を、強くいられるように。

前を向いて、みなさんの前で……お兄さんの前で笑っていられるように、と。

でも今は、そんなおまじないに頼る必要はない。

わたしには支えてくれる仲間が……お互いに支え合える仲間たちがいるから。

CLANNAD 10years after ~有紀寧~

春と言うには少し遅く、夏と言うにはまだまだ早い……そんな、曖昧な季節。

その日は朝から快晴で、外は雲ひとつない青空が広がっていた。

わたしは店の戸締まりを済ませると、入り口に『本日閉店』のプレートを掛ける。

「ゆきねぇ」

聞き覚えのある呼び声。

振り返ると、そこには見知った顔があった。右目の上下と左頬に大きな傷痕がある。手には花を持っていた。

「蛭子さん……わざわざ来てくれたんですか」

「ああ。なんつーか……暇してるからな、俺は」

あさっての方向を見ながらそう言う蛭子さんだが、わたしを迎えに来てくれたことは明白だった。

「新しいお仕事はどうですか?」

「生傷の絶えないところさ。それこそ俺には向いてるかもしれねぇ」

自然にふたり並んで歩き出す。

以前はこのように世間話をする余裕もなかった。やっぱり時間が――十年という長い時間が解決してくれたのかもしれない。自分の中の苦しい思いも。

「今じゃ俺は、九千九百九十九のかさぶたを持つ男さ。今日、久しぶりにあいつらとやりあったら、記念すべき一万個目になりそうだぜ」

「ダメですよ。また墓地の中で暴れたりしたら」

「おう、今度は裏手にある林の中でやるから安心してくれ」

「そこは暴れないって言ってください。もうっ……」

そう言いつつも、わたしは思わず笑ってしまう。

皆、社会に出て……なかなか会えなくなっても、久しぶりに会えばあの頃と変わらないやり取りをする仲間たち。

そんな輪の中に、わたしもいる。お兄さんが築いた輪の中に。

「よぉ、ゆきねぇ。久しぶり」

「お久しぶりです、荒井さん」

しばらくふたりで話をしながら歩いていると、横断歩道の前で信号待ちしていた荒井さんと再会する。

今年も自分のお店から綺麗なお花を持ってきてくれていた。

「つーかエビ、てめぇ今年も抜け駆けかよ」

「そんなんじゃねぇよ。ただ、ちょうど近くを通りかかったってだけだ」

「嘘くせぇな……」

「まぁまぁ。荒井さんも一緒にいきましょう」

三人で横断歩道を渡り、荒井さんとも歩きながら近況を話し合う。

やがて四つの道に分かれた交差点で、それぞれ左右の道から男の人たちが歩いてきていた。その手にはわたしたちと同じように、花を持っている。

まずは右の道から歩いてきた四人が声をかけてくる。

「よぉ、ゆきねぇ」

「こんにちは、須藤さん」

「久しぶりっす」

「お久しぶりです、榎本さん」

「ゆきねぇ、一年ぶり」

「ご無沙汰しています、藤堂さん」

「もうかりまっか」

「ぼちぼちですよ、深沢さん」

そして左の道から二人。

「なんじゃ、蛭子と荒井はゆきねぇと一緒か」

「こんにちは、溝口さん。はい、行きがけに偶然会いまして」

「奇遇だな。交差点でちょうど鉢合わせになるなんて」

「こんにちは、田嶋さん。本当に奇遇ですね」

大所帯になり、道中も賑やかになる。

それでも、やっぱり今日は寂しさが上回ってしまうのか……

目的地に近づくにつれ、みんな無口になっていった。

墓地へと続く最後の分かれ道。

その道の脇で電柱にもたれかかっていた男の人が、わたしたちに気づいて顔を上げる。

「ゆきちゃん」

「草苅さん……今年もここで待ってくれていたんですか?」

「うん、みんなと一緒に行こうと思ってさ」

「はい、草苅さんも一緒に行きましょう」

皆、それぞれの言葉で草苅さんとの再会を喜んでいた。

「一年ぶりだな、草苅。元気してたか?」

「うん、元気だよ。エビちゃんは? かさぶたは増えたかい?」

「今日で一万になる予定だ」

「そりゃすごいね」

ムードメーカーの草苅さんは、毎年こうして暗くなりかけた場を明るくしてくれる。

「ゆきちゃん、これ。毎年同じもので悪いけど」

「ありがとうございます。このお菓子、兄も大好きでしたから。きっと一年に一度の楽しみにしていますよ」

草苅さんからお菓子の入った紙袋を受け取ると、最後の道を左へと曲がった。

まっすぐに歩き続けるとアスファルトで覆われた道路が急に途切れ、地面の土が露出した坂道へと変わる。

十年前とは大きく変わった町の景色の中、ここは何も変わっていない。

取り残され、忘れられてしまったかのように。

でも、わたしはこの場所をずっと忘れない。

そして今日来てくれたみんなも、きっと。

坂道を登りきると、目的地が見えてくる。

そして墓地の入り口にも、わたしたちが来るのを待ってくれている人がいた。

「来たか……有紀寧」

「石橋さん」

待っていたのはお兄さんの親友、石橋さん。わたしたちの中で一番の年長者だ。

「お久しぶりっす、マサさん。また一段と凶悪な面構えに磨きがかかってますね」

「おめぇに言われたかねぇよ、蛭子」

「ほかのみなさんは、もう中ですか?」

「ああ」

「それで、また一人で門番っすか」

「違ぇよ。それに、今年はオレ一人じゃねぇぜ」

石橋さんがすっと身を引く。その後ろにいた男の人が前に出て、姿勢を正した。

「有紀寧さん」

「勇くん……」

ここに集まった仲間たちの中で最年少の勇くんは、わたしのお友達。

勇くんと初めて出会ったのは高校時代、あの資料室でだった。今はもう、なくなってしまった場所。変わってしまった場所。

もっとも、その頃の勇くんは小学生だったのだけれど。

「今年はお仕事、大丈夫なんですか?」

「ええ、もう二年目なんで……だいぶ慣れました」

出会った頃は、お姉さん離れできない、仲が良い姉弟の弟だった勇くん。

それがいつの間にか背も抜かれ、精神的にも肉体的にも強くなっていた。

わたしも勇くんのように強くなれただろうか。前を向けているだろうか。

お墓の前に着くと、まずは皆、無言で手を合わせる。

お兄さん、久しぶりです。

今年もたくさんの人たちがお兄さんに会いに来てくれました。

「よし、まずは一年に一度の大掃除だ。気合い入れていくぜ!」

「清掃道具なら俺に任せろ。ホウキ、雑巾、バケツ、軍手、ゴミ袋……なんでもござれだ」

「おおっ、さすがは本業だな」

「じゃ、俺は雑草取りな」

「俺は掃き掃除」

「オレたちは有紀寧と一緒に墓石の清掃だ。蛭子、勇、いいな?」

「うっす」

「わかりました」

皆、それぞれに役割を決め、手分けして周囲の掃除を始める。

わたしは石橋さんたちと一緒に墓石を拭く。

布巾で墓石をごしごしと磨いた。昔、お風呂でお兄さんの背中を洗った時のように。

そして最後に、手桶で墓石に水をかけた。

掃除を終えると、半紙を広げて草苅さんから受け取ったお菓子を置く。そして、綺麗になった花立てにお花を供えた。

居住まいを正し、改めて墓前に座る。

火をつけたお線香を立てると、手を合わせて目を閉じた。

お兄さん、今年もいろいろなことがありました。

伝えたいことはいっぱいありますが……

たくさんの人に支えられて、わたしは今も幸せです。

わたしに続いて、石橋さん、蛭子さん、荒井さん、草苅さん……みんながお花やお供え物、お線香を供え、自分の『今』をお兄さんに伝える。

最後に勇くんが供え終えた頃には、線香立ていっぱいに供えられたたくさんのお線香から出る白い煙が、ゆっくりと青い空へ昇っていった――。

時の流れと共に変わりゆく世界。

そんな世界の中で、変わらないもの……変わってほしくないものがある。

それは……人の心。

「おい勇、今年こそ、おめぇの覚悟を聞かせてもらうぜ」

「いや、聞かせてって言ってなんで拳を構えるんすか、蛭子さん」

「男は拳で語り合うんだよ。あっちの林で俺と勝負だ」

「わ、わかった! わかりましたから襟を引っ張らないで! 服が伸びちゃうから~」

以前と変わらないやり取りをしている蛭子さんと勇くん。

そしてそんなふたりを見守る仲間たち。

眩しい日の光に目を細める。

お兄さん、見てくれていますか?

あの頃と変わらない光景を。

あの頃と変わらない、仲間たちの心を。

――終わり。

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感想などをお題箱で伝えてくれたら嬉しいです!

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後書き

CLANNAD10周年記念SS第6弾、有紀寧アフターでした。

有紀寧の未来はりえちゃん同様ベタですがスナックバーのママ……近所でも有名な癒し系美人ママと脳内妄想しています。さらに未亡人という案もあったのですが、あまりにも暗い未来になりそうなのでやめときました。

『マエヲムイテ』のおまじないは原作と異なる方法になってますが、朋也(甘えられる相手)がいない場合は有紀寧ひとりでしていたのではないか、と想像しています。ゆきねぇーしょん!に続いて今回も蛭子と勇の扱いが良いですが、その辺の話も機会があれば書きたいな。勇はこれまでに書いたトゥルーエンドアフター系SSに名前を伏せて登場してるけど。

私的妄想部分も多々ありますが、その中でもCLANNADらしさにはこだわったつもりなので、楽しんでもらえたら嬉しい。