「あ、ああぁ……」
藤林が震えた声を出す。
俺には見慣れた光景だったが、藤林には刺激が強すぎたようだ。心なしか、身体も震えている。
それでも自分を落ち着かせるように深呼吸して、倒れている春原にゆっくりと近づく。
「こ、こういう時は、えっと……まずは落ち着いて、脈を……」
「よし、脈だな。こうか?」
頚動脈に両手を添え、首をぐいと持ち上げる。
「わ、わわっ、ち、違いますっ! そんなことしたらダメです!」
慌てる藤林を尻目に春原の上体を無理矢理起こしたところで、そもそも右腕が上がらない俺にはこのまま立ち上がらせて身体ごと頭上に持ち上げるような芸当ができないことに気づく。
現状は向かい合って首を絞めているという、端から見るとやばい構図だ。しかし、首を絞められてるのにまだ気づかないのか、こいつは。
「……ん?」
一見、いつものように気絶しているのかと思ったが、よく見ると風子が夢想している時と同じように口元が緩んでいた。
「んふふ……」
その緩みきった口から気色悪い声が聞こえてくる。口ごもった笑い声を寝言のように漏らしているようだ。
…………。
「……よし」
「だ、大丈夫なんですか?」
「ああ、任せてくれ」
起き上がらせた春原をうつ伏せに倒すと、その背中に跨って腰を下ろす。後ろから春原の顎を両手で掴み、身体を反り上げるように……引く!
「キャメルクラッチ!」
「ぎゃああああああーーーーっ!」
#19「Little Song」
「……とまあ、藤林の占い通り、春原が危険な目に遭ったわけだが……」
「あんたが遭わせたんでしょ!」
「あ、あはは……」
俺たちのいつものやり取りに藤林はどう反応したらいいのかわからないようで、曖昧に乾いた笑いを浮かべる。それでも本気で心配していたらしく、ほっと安堵の息をついていた。
「人がせっかく余韻に浸ってたのに、いきなり何すんだっ」
「ネックハンギングツリーを決めようとしたけど無理だったんだ」
「だからっ、なんでいきなりネックハンギングを決めようとするんだよっ!」
「美佐枝さんの代わりだよ。ドアはちゃんと閉めないと今度はおまえの首を絞めるんだってさ」
「今度って言ってるのに今絞めないでくれますかねぇ! つーかネックハンギングもキャメルクラッチも首を絞める技じゃねぇよっ」
「じゃあスリーパーホールドか」
「いや、もう勘弁してください……」
一気に脱力してクールダウン。
悪ふざけが過ぎたな。そろそろ本題に入ることにする。
「それで、おまえはこんなところで何してんだ。今日からここに住むのか?」
目の前の『クリーンステーション』と書かれた看板を指差す。
「へっ? なんでだよ」
「さっきまでここで寝てたじゃん」
「寝てたわけじゃないんだけどね。ちょっとぼーっとしちゃってただけで」
こいつはぼーっとする時に白目を剥くのか。怖すぎる。
締まりのない、にやけ面。話したくて仕方がないといった様子だ。
「嫌だ」
「聞いてくれよっ!」
結局どう答えても理由を聞くはめになるのだった。食い下がってくるなら最初から訊くなよ。
*
「そこの角でさ、出会い頭にかわいこちゃんとぶつかったんだ」
春原は俺たちが歩いてきた道を指差す。
「それで僕はビビッときたね。今度こそ運命の赤い糸で結ばれた相手だと」
「なんだそりゃ?」
「委員長の占いさっ」
「わ、私ですか?」
いきなり話を振られた藤林が、びくっと身体を強張らせて一歩後ろに下がる。
「ほら、先週占ってもらったじゃん。『恋の始まりが新しい生活の始まり』ってさ」
「あ、はい」
ああ、他人の彼女に抱きついてラグビー部に連れていかれた件だな。『これまでの辛い生活に終止符が打たれるでしょう』とかいうやつだ。
確かに終止符はいまだ打たれることなく、こうして生き延びているわけだが。
「それで? またいきなり抱きついたのか」
「僕だってそこまで馬鹿じゃないさ」
いや、馬鹿だろ。
「『怪我はなかったかい?』って声をかけてみた」
「はあっ?」
春原らしからぬ発言に耳を疑う。
「だから、その子に『怪我はなかったかい?』って言ったんだよ」
「ぶつかって倒れてる子に向かってか」
「違うよ。倒れてるの、僕のほう」
「その女の子は」
「立ってる」
「角でぶつかって、おまえだけ倒れたのか」
「そう」
やっぱり馬鹿だった。
さらに女とぶつかって自分だけ倒れるとか、男としてかなり格好悪かった。
「そしたらその子、すげぇ驚いててさ」
「そりゃ目の前に倒れてる包帯マッキマキマンにいきなりそんなこと言われたら誰だって驚くだろ。自分の心配しろよ!ってな」
「誰が包帯巻き巻きマンだっ」
「違う、包帯マッキマキマンだ」
「誰が包帯マッキマキマンだっ」
律儀に言い直す。
「そうそう」
「んなことはどうでもいいよっ!」
満足したところでノリツッコミが来た。
「ちゃんと聞いてくれよ。まぁ包帯を見て驚いたのは間違いないんだけどさ」
なぜか照れるように頬を赤くした春原は、片手を上げて包帯マッキマキな自分の頭に触れる。そこで俺は、春原の頭の状態が以前と異なっていることに気づいた。
「おまえ、包帯替えたのか」
「よくぞ聞いてくれました!」
その言葉を待ってました、とばかりに食いついてくる。
「いや、俺の気のせいだった。じゃあな」
「こらこらっ、まだ話の途中だっての!」
踵を返すも、全力で引き止められる。
「そのかわいこちゃんが包帯を取り替えてくれたんだぜっ」
何度もかわいこちゃん言うな。
「通りすがりの女の子がなんで包帯なんか持ってたんだ?」
「きっと看護婦さんだったんだよ。白衣の堕天使ってやつさ。白衣が似合いそうな可愛い子だったし、間違いないね」
「看護婦だからって包帯を持ち歩いてたりしないだろ。あと、堕天使じゃなくて天使な」
そういえば風子も包帯を持ち歩いてたな。あれは自分用に保健室から持ち出してきたやつなんだろうが。
「白衣の堕天使、って響きがなんかエロいよね……はぁはぁ」
「エロいとか言うな」
変なビデオの見すぎだ。それに女子の前で言うセリフじゃない。
見れば案の定、あからさまに引いた様子の藤林が春原から距離を離していた。
「だってさ、ハンカチで汗を拭きながら包帯を替えてくれたんだぜっ。それも息がかかるくらいの距離でさ。うはーーっ、思い出しただけで興奮してくるよっ!」
当初の目的も藤林の存在もすっかり忘れて、鼻を膨らませて興奮する春原。ダメだこりゃ。
その後もどうでもいい話を延々と聞かされ続けたが、要約すると……
角でぶつかった女の子に包帯を替えてもらったが、急用を思い出したその子はすぐに走り去ってしまった。結局名前も聞けなかった、と。そういうことらしい。
「そして残されたのが、その子が忘れていったこのハンカチってわけ。なんかさ……これってすごく運命的だよねっ」
興奮冷めやらない様子の春原が話を締めくくるように見せたのは、クローバーの刺繍が入った可愛らしいハンカチだった。
ん? なんか見覚えがあるような……。
「あ、このハンカチ……」
少し離れた場所からハンカチを見た藤林が口を挟んだ。
「心当たりあるの!?」
「い、いえっ、私が使っていたものと同じ柄だったので……」
ものすごい食いつきで詰め寄る春原に、藤林は怖がってまた数歩下がる。
「なんだ……期待させないでくれよ」
勝手に盛り上がって勝手に落胆していた。
「ああ……もう一度会いたい……」
惚けた顔で空を見上げながら呟いている。アホだ。
「あ、あの……」
当初の目的を忘れてぼーっとしている春原に呆れていると、藤林が遠慮がちに声をかけてきた。
「ん? どうした?」
「えっと、春原くんも見つかりましたし、私はそろそろ……」
「ああ、そうか」
もともと藤林は学校へ向かう途中だった。会った場所よりも学校から遠ざかってしまっている。それにここへ来るまでの間に道に迷ったりしたため、あれから結構時間が経っていた。
「サンキュな」
「い、いえ……」
藤林は軽く頭を下げて、さっき来た道を戻っていった。曲がり角のところで振り返って律儀にもう一度頭を下げる藤林に手を上げて応え、その後ろ姿を見送る。
「……って、おい岡崎っ! 椋ちゃん帰しちまってどうすんだよ。貴重なパーティーメンバーだろっ」
現実に帰ってきた春原が、またしても当初の目的を忘れた発言をする。
「あのな……芳野祐介はどうしたんだよ、おまえ」
「あ、しまった!」
本当に疲れる……。こいつはマジで鉄砲玉なんだな。銀玉鉄砲の。
「そういや、ギターはどこやったっけ。えーっと、ギター、ギター……」
落ち着きなく周囲を見回す。寮まで戻ってたのはギターを持ってくるためだったのか。
「あの赤いケースのやつか」
「そう。岡崎も捜すの手伝ってくれよ」
「これか?」
「ああ、それそれ。センキュー」
俺たちの話に横から入ってきた男が、春原にギターを手渡す。
「……って芳野さん!?」
「また会ったな」
「こんにちは」
つーか男は芳野さんだった。その隣にはさっき古河パンの店内で見かけた女性の姿もあった。公園で芳野さんが待っていたのはこの人だったのか。
「芳野さん、探してたんすよっ」
「なんだ、さっそく聴かせてくれるのか」
「へっ?」
「ギターだよ」
芳野さんは春原の手にある赤いケースを指差した。
「い、いや、なんていうかその……まだ聴かせるまでうまくなってないっていうか……」
言いよどんだ後、歯切れ悪く答える。そういえば、こいつはどうやって芳野さんを連れていくつもりなんだろうか。
「芳野さん!」
意を決した様子で春原が告げた。
「僕と……冒険してくれませんかっ!?」
「なんでやねんッ!」
あんまりなボケに思わず裏手水平チョップをかまして全力でツッコんでしまう。
「おまえら、やっぱりお笑いコンビだったんだな。前にも言ったが、お笑いはわからないんだ」
立ち去る。
…………。
もう春だというのに、空気がとても寒かった。
「はっ」
春原が我に返る。
「おまえのせいでまた勘違いされただろっ!」
「今のは俺のせいじゃねぇよ!」
「芳野さんをパーティーに入れたら芽衣にも会わせられるし、ビフテキ二丁でしょっ」
「んなうまくいくかよ……。あと、一石二鳥な」
「とにかく追いかけるぞっ」
前に勘違いされた時と同じように、春原が走っていって弁解する。
相変わらずどう言いくるめたかは知らないが、芳野さんは以前と同じ複雑な表情で戻ってきた。
「いきなり冒険してくれと言われてもな……」
「いや、だからそれはなんというか……比喩表現っす」
「無理して難しい言葉を使うな」
「難しくねぇよっ」
ふたりの会話に割って入った俺の言葉に、すぐさま反応する春原。パブロフの犬か。
「本当にお笑いコンビじゃないんだろうな……?」
「くすくす……」
疑惑の眼差しを俺たちに向ける芳野さんとは対照的に、隣の女性が楽しそうに笑う。
ウケた……。ちょっと嬉しい。
「余計な口を挟むなってのっ」
春原が小声で言ってくる。
「打てば響くもんだからついな」
「おまえがそんなだからお笑いコンビとか言われるんだよ……とにかく黙ってろって」
お口にチャックのジェスチャーをして、芳野さんのほうを向く。
「ええと……僕と冒険してください」
「それはさっきも聞いたな」
「そ、そうっすね」
おまえは話が途中で止まったら最初から言わないと気が済まないのな。
「冒険か……」
芳野さんが遠い目をして呟いた。
「人は皆、冒険者だ。人生という名のな」
冒険者!
人生という名の!!
反芻するかのように頭の中を言葉が飛び交う。相変わらず寒いセリフを堂々と言う人だな。
「冒険を共にするということは、人生を共にするということだ」
人生を!
共にする!!
「人は誰でも、ひとりでは生きていけない。支えてくれる人がいるから生きていける。だから……」
芳野さんは軽く目を閉じて、すぐに開き……
「その言葉は俺なんかじゃなく、おまえたちが大切に思う人のために取っておけ」
そう締めくくった。
どう反応していいのか困って、隣の春原に目をやる。
「はいっ、そうします!」
純粋に感動していた!
「いや、そんな大げさなもんじゃなくて……俺たちと一緒に来てほしいんです」
このまま春原に任せていてはどうにもならない。仕方なく口を挟む。
「どこへ」
「古河パンっす」
ストレートに告げた。
「古河パン? あのパン屋に何かあるのか」
「それは……」
当然の疑問を返す芳野さん。俺は春原を肘でつつく。
「い、いや……なんていうかその……」
またしても言いよどみ、今度は何も思いつかず口ごもる春原。やっぱり何も考えていなかったらしい。
「……悪いがこれから……」
「あ、そうそう」
何か言いかけた芳野さんに言葉を重ねるように、隣にいた女性がのんびりした声で俺たちの視線を集める。そして何か思いついたかのように、ぽんと両手を合わせてみせた。
芳野さんが言葉を止めて隣の女性と向かい合う。
「どうかしたのか」
「パンの買い忘れがあったのを思い出したの。悪いんだけど、一緒に買いに戻ってくれないかしら」
「……え?」
急な提案に芳野さんが眉をひそめる。
「あの子の大好物なのよ。だから、ね?」
両手を合わせたままお願いのポーズ。
芳野さんは少し困った様子で頭を掻く。彼女は芳野さんの恋人なんだろうか。
「はぁ……わかったよ」
やがて観念したのか、ため息と共に頷いてくれた。
「奇遇ですね、私たちも古河パンに行くところだったんです」
俺たちに笑顔を向けながら、しれっと言う彼女。
明らかに渋ってた芳野さんをあっさり説得(?)してしまったこの人はいったい何者だろう。
***
「いらっしゃいませーっ」
さっきまでの大盛況が嘘のように静まり返った古河パンの中に入ると、エプロン姿の芽衣ちゃんが明るい声で迎えてくれる。店内に客はひとりもいなかった。
「なんだ、おにいちゃんか……おかえり。あっ、岡崎さんもおかえりなさい」
客ではなく兄だとわかると急に声のトーンが落ちたが、すぐ後ろに立つ俺の姿を認めると再び声のトーンを少し上げて笑顔で迎えてくれた。
「あ、お客さんも。いらっしゃいませー」
俺たちに続いて店内へと入ってきたふたりに気づいた芽衣ちゃんは、居住まいを正して礼をする。まずは女性のほうに笑顔を向け、そして長身の男性……芳野さんを見上げると……
「え゛ぇぇぇぇーーーーーーっ」
文字で表せないような叫び声をあげて驚いた。
「どうしましたかっ」
芽衣ちゃんの大声を聞いてカウンターから駆けつけてきた古河は、すぐに俺たちの姿に気づく。
「あっ、おかえりなさい。岡崎さん、春原さん」
「おう」
軽く手を上げて応える。なんだか照れくさい。
「芽衣ちゃん、どうかしたんですか」
「まぁ、なんつーか……」
「こんにちは、渚ちゃん」
どう説明したらいいのか困っていると、芳野さんの連れの女性が古河に声をかける。
「伊吹先生……」
古河は少し驚いた様子で言葉を続ける。
「何か忘れ物でもありましたか」
「ええ、買い忘れたパンがあったの」
やっぱりこの女性は古河の知り合いだったらしい。
「あら、いらっしゃい」
昼食の準備が終わったのか、店の奥からエプロン姿の早苗さんが出てきた。
「こんにちは」
古河に伊吹先生と呼ばれた女性……伊吹さんは、早苗さんとも知り合いのようだ。どこか似たような雰囲気のふたりは、古河も交えてにこやかに話をしている。
それとは対照的に、こっちは……
「い、いらっしゃいませ! あ、あのっ! よ、よろしくお願いします!」
「あ、ああ。なんかわからんが……よろしく」
ガチガチに……いやガッチガチに緊張した空気だった。
マイベストを自作するくらい大好きなミュージシャンを目の前にして、芽衣ちゃんは明らかに緊張していた。美佐枝さんに段取りよく挨拶していた昨日とは大違いだ。
「おまえの妹か」
芳野さんが春原に訊く。
驚いた。今まで芽衣ちゃん本人が春原の妹だと自己紹介しても誰にも信じてもらえなかったのに。
「は、はい」
頷く春原はさっきから手に持ったギターをちらちらと見ているが、さすがに言い出せないでいる。
「そうか……」
そんな春原を一瞥した後、芳野さんは早苗さんと話している伊吹さんに目を向ける。その複雑な表情からは明確な感情は読み取れなかったが、伊吹さんを見つめるその目はあくまで優しい。
「あ、あのっ、すみません。おに……兄が何かとんでもないご迷惑をおかけしたんじゃないでしょうか……」
未だに緊張が解けない芽衣ちゃんが、ぎくしゃくしながらも深く頭を下げる。
震えているその頭に、芳野さんはそっと手を載せた。
「貸せ」
何がその心を動かしたのか。
芳野さんは短くそう言って、春原からギターを奪い取る。
「あっ……!」
春原、そして芽衣ちゃんが同時に声をあげる。
「冒険してほしいんだろ?」
芳野さんはストラップに頭を通しながら、春原のアホな誘い文句に応えるように言った。その表情は少し、穏やかになっていた。
「あ、ありがとうございます!」
「わぁ……!」
春原の感謝の声、芽衣ちゃんの感激の声。
優しい目で芳野さんを見つめながら、ぱちぱちと拍手する伊吹さん。早苗さんと古河もそれに続く。
声援を受けてギターを構える芳野祐介の姿。それだけでこの古河パンの店内がコンサート会場にでもなったような錯覚がした。
「どうぞ、座ってください」
「どうも」
早苗さんに勧められて丸椅子に座った芳野さんは、一弦ずつ指で弾きながら音を合わせていく。
チューニングが終わると、ピックを持って曲を奏で始めた。
「…………」
以前弾いてもらった曲とは違う、聞き覚えのある曲調。有名な歌謡曲だった。
ちょうど曲の流れが変わったところで、伊吹さんが歌い始めた。澄んだ歌声だ。古河が先生と呼んでいたが、音楽の先生なんだろうか。
早苗さんと古河も続いて歌い出す。少し戸惑っていた芽衣ちゃんも、背筋を伸ばしてそれに続く。
演奏を続けながら、芳野さんが目を閉じる。俺も目を閉じた。
美しい旋律。それに重なる歌声。
古河たちの高い歌声に合わせて、新たに低めのよく通る声が聴こえてきた。
目を開く。
それは芳野さんの歌声だった。
カセットテープのイヤホン越しに聴いたその声とはまるで違う。
それは芳野祐介の生の歌声だからというのもある。だがそれ以上に……
『プロか……』
『そんなの、どうだっていい』
『俺はただ、歌いたい時に歌う』
『そうしてるんだ』
かつての自分に対して壁を作っているかのように思えたその言葉。
でも違った。
本当に歌いたい時には歌っているんだ。
それはかつて伝説のミュージシャンと呼ばれた芳野祐介ではなく、今この町で電気工をしている芳野さんの歌声だった。
「……」
俺と春原は無言で顔を合わせ、共に頷く。
自分でもわからない感情に心が震えていた。
そして……
小さな町の小さな店の中を、芳野さんの……俺たちの歌声が響き渡っていった。