ふたりはずっと

「プール?」

りえが親友である杉坂からその言葉を聞いたのは、ようやく1学期の期末試験が終わり、学校全体が試験休みという夏休みの前哨戦に突入した直後のことだった。

つまりはテストの日程がすべて終了し、教室を後にした廊下でふたりは歩きながらそんな話をしていた。

「そう、りえちゃんっ! どうかな。プールなんてずっと行ってないでしょう? 原田さんも一緒に誘うと思ってるんだけど。同じ合唱部だしね」

「どうしようかな、すーちゃん」

「すーちゃんって言うなって言ってるでしょう」

「私は結構好きだけどな。ことみ先輩からプレゼントなんだし、使わないともったいないよ」

「もったいなくて結構っ! っていうか、杉坂だからすーちゃんなんて、安直過ぎるよ」

まったく、ことみ先輩ってすごく頭いいはずなのに、どこか子供っぽいのよね。そうぶつぶつ言う杉坂にりえが、でもわたしは好きだよ、とくすくす笑いながらもう一度言った。

「わたしが嫌なのっ! すーちゃんなんて呼び方っ!」

ことみとの付き合いは、というよりもことみを含めた(仮称)演劇部との付き合いは4月の終わりからだから、もう3ヶ月近くにもなる。

ことみ、一応部長ということになっている渚、そして実質的な部長というべき杏、その双子の妹である椋、そしてことみの彼氏である朋也、彼らが演劇部の全員だった。

毎日顔をあわせているというわけではないが、週に一度や二度はことみたちが合唱部室にやってきたり、あるいは合唱部が演劇部室に赴いたりと、それなりに仲良くやってきているのだけれど。

「不思議な縁だよね」

りえは杉坂から視線を外して校舎の窓から見える夏空を見上げながらそう言った。

「あの時、わたしがバイオリンを弾いてたから、出会えたわけだしね」

バイオリン、という言葉にりえ以上に杉坂が身を硬くする。けれど言った方は言われた方ほどには動揺していないようだった。

りえはあれ以来――音楽部の先輩に頼まれて、バイオリンの価値を調べるために弾いて以来、一度もバイオリンを弾いていなかった。ことみの演奏会に半ば強引に杏に連れて行かれて半死半生にまで追い込まれたことがトラウマになった、というわけではない……と思う。たぶん。

その暇が無かったというのもまぎれも無い事実だった。合唱部として5月中旬の創立者祭に参加するために歌の練習を続けたし、それ以降も秋の学園祭に向けての練習を欠かさなかった。

さらには進学校の生徒としての義務とも言うべき勉強にも励まざるを得なかった。

もっとも後者は、杉坂にとってはより一層のしかかってきた、というのが正しい用法ではあった。その事実、というよりも来週には返されるであろう期末試験の結果が怖ろしいという現実が、杉坂の口を開かせる。

「りえちゃんはいいよね、勉強できるからさ」

「そんなことないけど、で、期末の感触はどうなの?」

「どうって、そんなこと聞かなくても分かるでしょう? りえちゃんはどうなのよって、聞くまでも無いか」

「そんなことないよ、わたしもそこそこできたかなってくらいだし。でも、やっとテストも終わったね」

「……そうだよね。終わったよね……なにもかも……ね」

表情を暗くして呟いた杉坂に、りえがため息混じりに言う。

「そっか、終わっちゃったんだ」

親友の台詞が意味するところを正確に読み取ったりえは、全教科のうち、赤点が何教科までなら夏の補習が免除されたかなと、思い出していた。

「確か、二教科までだったかな、赤点は。ねぇ、すーちゃん」

「赤点のこと言わないでっ! それと、すーちゃんっていうのも言わないでっ!」

杉坂の反応が面白くてりえは笑った。

「そこまで毛嫌いしなくても」

りえはことみのことを思い出していた。

杉坂が嫌がっているその愛称は、ことみが杉坂に命名したものだった。

「杉坂ちゃんだからすーちゃんなの。とっても可愛い名前なの」

そう言って笑った彼女が姿を見せたのは、りえたちが目標にしていた創立者祭の舞台が成功裏に終わった翌々日、創立者祭の代休が明けた次の日のことだった。

そしてことみと共にいる杏、椋、渚、そしてなによりも、朋也。彼が居なければ、杉坂がすーちゃんという愛称を付けられることもなく、そしてなによりもりえは大切な友人の一人を失っていただろう。あるいは出会うことも無かったかもしれない。

一時期ことみが家から一歩も出ようとしなかったこと、そして朋也がことみを助けたことを、りえはその事件からしばらくしてから聞いた。

彼はことみのために、彼女の家の庭にかつての美しさを取り戻させ、そして自らのからの中に閉じこもろうとした彼女自身をも救い出した。

「ことみ先輩って、幸せなんだろうね」

その言葉に自らの過去を重ね合わせつつ呟くようにりえは言った。

あの日、合唱部顧問となってくれている幸村に出会わなければ。

そうすれば自らのからに閉じこもろうとしたことみと同じ境遇を味わっていたかもしれない。この時も、なお。

「岡崎先輩、か」

彼のような存在がわたしにもいたら。そう考えてからりえは小さく笑った。わたしには少なくともすーちゃんがいる。それだけでも十分なはずだった。

「格好いいな、先輩」

見た目もそうだったけれど、それ以上にその中身に、ことみを思いやるその優しさや一途な想いに憧れてしまう。

「りえ。あんた、ことみと取り合うつもり?」

そのときふたりの背後から声が聞こえて、慌てて振り返る。

「こんにちわ、杏先輩」

ほとんどふたり揃っての挨拶に、そこに立っていた杏が同じように挨拶をする。杏の隣にはことみがいる。

「はいはい、こんにちわ。りえ、すーちゃん」

「って、先輩っ! すーちゃんっていう呼び方は……」

「すーちゃん、いじめっ子?」

抗議の声を上げた杉坂に、ことみが涙目の視線を送る。

「わたしのこと、いじめる?」

「いえ、そういうわけじゃ……」

「いじめっこ?」

「いえ、ですから……」

しどろもどろにどういうべきか悩んだ杉坂は――相手が先輩だということでやはり遠慮してしまうのだ――助けを求めるようにすぐそばに居る親友に視線を送る。だがりえはその視線に気付いているはずなのに気づかない振りをして、くすくすと笑っているだけだった。

「うぅ~~~っ! いいよいいよ、りえちゃんがそういう態度に出るならいいよっ! りえちゃんと一緒にプールに行ったら、凹凸の無いなだらかでスレンダーなりえちゃんの肢体をたっぷり見てやるんだからっ! それからあとで思い出しながら……もがふがっ」

「す、すーちゃんっ!」

顔を赤くしてりえは慌てて杉坂の口を塞ぎ、仲のいいふたりを見つめている先輩たちにそっと視線を送る。

「すーちゃんにこんな一面があったなんてね」

半ば呆れがちにけれど面白そうに杏は独特のからかうネタが増えたと喜ぶ笑顔を見せていた。

「りえちゃん、そういうのなんていうか知ってるの。幼児体型っていうの」

まじめな顔でことみが言って、りえは思わずことみの夏服を押し上げている膨らみと自らのそれを見比べてため息とも取れるような息を漏らす。

「それは言い過ぎなんじゃないですか、ことみちゃん」

「ちょっとかわいそうな気がしますっ」

気づけばことみのすぐそばに椋と渚が立っていて、慰めともとれるような取れないようなことを言って、それから渚は自らの胸を見下ろしてすぐ隣に居る椋をみやり、りえと同じようにため息をもらした。

「わたしは好きだよっ! そんなりえちゃんがっ」

りえにふさがれた口をようやく外気に触れさせて杉坂がそう言って笑う。

「なんだかすーちゃん、そっちの趣味の人みたいだよ」

りえがため息混じりに親友に向かって言ってから、まだ少ししょんぼりと落ち込んでいる演劇部部長へと奇妙な親愛感を感じていると、そこへ誰かに人影が近づいてくる。

「お前ら、早いぞ」

見れば朋也が自らの分も含めて5人分の鞄を持っていた。

「あんたが遅いのよ。朋也」

「あのなぁ、お前ら全員の鞄を持っているんだからな」

「まだ、全員分じゃないわよ」

「はぁ?」

朋也が声を上げると、杏がふたりの後輩を指し示した。

「りえたちの鞄がまだ残ってるでしょう」

朋也はりえたちを見つめ、それからことみを見やり、彼女がほわりと笑うのを見て、ため息を一つつき、分かったよ、とそう言った。

「ことみの大切なお友達だもんな」

「そうなの。分かってくれて嬉しいの」

朋也のすぐそばに歩み寄って、幸せそうに朋也を見上げる。その仕草がとても可愛らしく、それでいて頭がよくて、女の子らしくて、料理も上手で。

「反則だなぁ」

りえは小さく呟いて見せた。彼女自身も料理は不得意ではないが、誰かに食べてもらえるほど上手というわけではない。少なくとも彼女自身はそう思っていた。杉坂に言わせれば、謙遜もいいところ、もっと自信をもってもいいんじゃないかな、ということになるのだけれど。

「すーちゃんのほうがもっと上手だから」

りえに言わせれば、杉坂こそもっとそういうことを前面に出してもいいのでは、と思う。見た目がどこか男の子っぽく、濃いルビー色の瞳が同級生に畏怖感を与えてしまうこともあるけれど、でも彼女も本当はすごく可愛いのだと、りえは知っていた。

それから彼女の視線はついついこの中でただひとりの少年に向いてしまう。

見た目は少し怖く見えるけど、本当は優しいのだと知っている彼を見つめていると、その視線に気づいた杏がもう一度、りえを唇の端をわずかに歪めて――決して非好意的な笑顔ではない表情で、見やった。

「りえ、ことみは手ごわいわよ。それにこいつも結構鈍いからさ」

「りえちゃんっ! それ本当? なんで、りえちゃん! 不倫なんてっ! りえちゃんにはわたしがいるじゃないっ!」

杉坂がりえの肩を掴んで揺すりながら声を上げる。

「すーちゃん、杏先輩の冗談だからさっ! それに、すーちゃんの言い方だったら、わたしまでそっちの趣味の人みたいじゃない。わたしは……」

りえはちらりと朋也を見やり、彼と目が合うと顔をわずかに赤らめてすぐに視線を外す。

「やっぱり、りえちゃんっ! だめだよ、りえちゃんの初めてはわたしが貰うんだからっ」

「すーちゃんっ!」

「初めてって……なんですか?」

渚が小首をかしげて尋ねる。

「えっと、たぶんだけど、英語で言うとロストバー……」

「ストップ、ことみっ」

顔を赤くした杏がことみの口を塞いで、それ以上言葉を続けるのを妨げる。

「ほうひゃん?」

「杏先輩って、案外可愛いところあるんですねっ」

「すーちゃん、案外は余計だよ」

「ちょっと、りえ、すーちゃんっ! どういう意味よ、それっ」

「……そうなの。杏ちゃんに失礼なの。これでも可愛いところもあるの」

「ことみ、それって褒めてるわけ?」

脱力したように杏はそう言って、もういいわよ、と大きく息を吐いてから、それで何の話だったかな、と口にした。

「いえ、その……」

りえはもう一度朋也を見やり、慌てて視線を伏せる。それがまるで恋する乙女であるかのようにさえ見えて、その事実に気づかない当人を除いた5名は複雑そうな表情を見せた。

「朋也くん……」

特にことみは今にも泣き出しそうな表情で朋也を見つめていた。

「わたしのこと、嫌いになったの? この間嵐のとき、一緒に寝てくれたの。凄く安心したの。でも、もしかして嫌だった?」

「へぇ、そういえば少し前に凄い嵐があったわよね。たしかことみとあんたがピクニックに行くって言ってた日、だっかな」

杏が唇の端を歪めてそう言うと、にやりと笑って見せた。

「杏、おまえな……」

朋也は呆れ混じりに杏を見つめ、それからことみを見つめた。今にも泣き出しそうな彼女の瞳は潤みを帯びて、彼女の美しい紫水晶を少し薄くしたような瞳を、やや濃く見せていた。

「ほら、朋也。答えてあげなさいよ。あんたのお姫様がこんなに不安そうにしてるんだからさ」

「そうです、岡崎さん。ことみちゃんが可愛そうです」

そう詰め寄られ、けれど衆人の前で何も言えないでいる朋也に向けて、ことみがさらに瞳を潤ませていく。

そんな不安そうなことみに、椋が、一度占ってみましょうか、と声をかけた。

「……えっと」

ことみが答えあぐねている間に椋はトランプを用意し、すぐにくってことみにトランプを差し出した。

「3枚選んでください」

「……」

ことみは戸惑いながらも頷いて3枚抜き取る。それを椋は受け取って、その3枚のカードをじっくりと見つめた。

「……どうなの?」

不安そうなことみが尋ねると、椋はまじめな顔で、けれども申し訳なさそうにゆっくりと言った。

「岡崎くんとことみちゃんは、絶対にうまく行かないと……」

椋が最後まで言い切らないうちにことみの双眸から透明な涙があふれ出る。

「……椋ちゃん、いじめっこ……なの、ひど……いの……」

しゃくりあげ泣き始めたことみを見て、朋也が非難交じりに椋を見やった。

「……朋也」

もちろん椋の占いが当たらないことは、杏も朋也も知っていたけれどことみは知らないことだった。

「ああ」

朋也は今度はもう衆人の視線を無視し、泣きじゃくることみをしっかりと抱きしめた。

「大丈夫だよ、ことみ」

「でも、でも。椋ちゃんが……わたしたちは絶対にうまく行かないって」

「ことみ、俺はことみを絶対に離さない。ずっとお前のそばに居るから。何があっても、絶対に。そう誓っただろう?」

朋也は一瞬周囲に視線を走らせ、友人たちがしっかりと見つめて来ていることに気づきわずかにためらいを見せたが、やがてことみの唇に自らのそれをゆっくりとあわせる。

数秒の短いキスの後、朋也はもう一度ことみを抱きしめ、その耳に囁いた。

「大丈夫。俺は絶対にお前をひとりにしない」

「うん……信じてるの」

「見せ付けてくれるわね、あんたたち」

ため息混じりに杏が言ってそれから朋也の腕の中にいることみに言った。

「大丈夫よことみ、ある意味じゃお墨付きを貰ったようなものだから」

「……???」

不思議そうに首を傾けることみに、杏はもう一度笑いかけ、それから双子の妹を見つめた。

申し訳なさそうな彼女に、これからは気をつけなさいと短く言って、それからふたりの後輩を眺めた。

「っていうことで、朋也とことみに間には割って入れないのよ、誰もね」

その笑顔がわずかに憂いを含んでいることにりえは気づき、おそらく似たような笑みを浮かべて、残念ですけど、と冗談めかして笑った。

「そういえばさ、すーちゃん。あんたさっきプールの話してたでしょ?」

「あ、はい……でも、わたしはりえちゃんと……」

「わたしは先輩たちと一緒で構わないですよ。っていうか、すーちゃんとふたりだと……なんだか貞操の危機が」

「りえちゃん、ひどいっ! わたし襲ったりしないよ? 強引には迫るけどっ」

「それじゃあ、一緒じゃない」

杉坂の抗議を無視してりえは、そんなわけで一緒に行きませんか? と演劇部員たちに言った。

「そうね、悪くないわね……じゃあ、水着を買いに行かないと。みんなで買いに行く?」

「これからか?」

「そうよ、これからよ。もちろんあんたは荷物もち」

「……春原なら喜んでついていきそうだけど」

「荷物もちなんてあんたひとりで十分よ。それに……水着なんて……」

杏は口の中で小さく何かを言ってから――そんなの見せられる相手って限られてるんだからねっ、そうりえには聞こえたけれど――顔を少し赤らめて、つべこべ言わずついてくればいいのっ! と怒ったような声を上げた。

「ことみ先輩が言ったことが良くわかりました」

りえが杏と朋也のやり取りを見ながら楽しげな声を上げると、ことみもうれしそうに、そうなの、杏ちゃんはとっても可愛いの、とそう言ってふたりで笑う。

「断っても無駄だろうしな……ことみ、それでいいのか?」

「わたしは構わないの。みんなでお買い物、とっても楽しそうなの」

「じゃ、決まりねっ! 朋也、りえたちの鞄持ってあげて」

「わかったよ。仁科、杉坂、鞄持ってやるよ」

「でも、悪いですし」

申し訳なさそうな後輩2人から半ば強引に鞄を持つ。

「これも甲斐性の1つよね」

「お前が言うなよな」

それから演劇と合唱部は揃って廊下を歩き始めた。

わたし、スクール水着なら持ってますっ

だめよ、部長っ! そんなのじゃ朋也にアピールできないわよっ

だめなのっ! 朋也くんにアピールしていいのはわたしだけなのっ

ことみちゃん、言うようになりましたね

そんな声が聞こえてくる先輩たちを眺めやりながら、りえと杉坂は彼らの後を追いかけ始めた。

これからもいろんなことが起きるだろうけれど、りえはすぐ隣にいる親友を見つめてそう思いながら、けれど彼女がいれば乗り越えられないものはない、そんな気さえした。そしてその予感は外れそうも無い。今までもそうだったように、これからもずっと。

そっと杉坂の手を握る。これからもずっと一緒だよね、静かに笑いかけた。

「り、りえちゃん……とうとうその気にっ」

「なんないからっ」

人選間違ったのかも。少し後悔したけれど。

りえはやっぱり楽しげに笑って、行こう、と笑いかけた。

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あとがき

こんにちわ、もしくは初めまして。熊野日置と申します。

ことみシナリオ後の合唱部と演劇部の交流(?)を描いてみました。

とらふりおんさんの描かれる杉坂を目指しましたが……中途半端な感じが。

感想などありましたらいただけると幸いです。