トンネルを抜けると、そこは見慣れた景色。

……それでいて、見知らぬ景色だった。

「わぁ……」

荷物に紛れるようにしてワゴン車の後ろに乗り込んでいた娘がひょっこり顔を出し、お気に入りのぬいぐるみを抱えながら外の景色に感嘆の声を漏らす。

「すごいっ、あっという間に山の向こう側に来ちゃったね」

「小さい頃から町を徘徊してた汐には見慣れた景色じゃないのか?」

「徘徊じゃなくって冒険。それにだいぶ前のことだし、いくらあたしでも歩道がない道路を歩いたりしないよ。だから新鮮」

「そんなもんかね……」

十年ほど前に幹線道路が開通し、この町の風景は大きく様変わりした。

かく言う俺も仕事でそれに関わっていたわけだが、こうやって実際に幹線を通って山を抜けるのは初めてのことだ。

『すべての山を切り開けば、どれだけ楽に登校できるだろうか』

学生時代にそう考えていたことがいざ現実のものとなると、やはり寂しさが先に立つ。

だがおかげで汐は山のこちら側から中学に通うことができる。

自分勝手なことだが、今回は変わっていくことの寂しさや恐れよりも喜びのほうが大きかった。

「さっきからにこにこして、嬉しそうだな」

カーブミラーに一瞬目をやってスローカーブを曲がったところで、真横の助手席から視線を感じて声をかける。

「朋也くんも、うれしそうな顔してます。わくわくしてます」

「まぁ……念願のマイホームってやつだからな、一応は」

「そうです。朋也くんの……わたしたちの新しい家です」

俺たちの新しい家、か。

「俺にとっては新鮮味のない家だけどな」

幹線を外れる右側の下り坂へ向けてハンドルを切る。

道を下ると、目的地はすぐそこだった。

すべてを捨てて俺を育ててくれたあの大きな背中は、いつの間にか小さくなっていた。

男手ひとつで俺を育て上げた父の背を見送ってから十年。

俺は長い、長い家出の果てに、我が家へと帰ってきた。

渚と汐と、家族で。

CLANNAD 10years after ~朋也~

事の起こりは春休み。

俺にとっては懐かしい響きの言葉だ。

仕事のスケジュールを調整して二連休をもらった俺は、朝から引っ越し作業に明け暮れた。

汐が生まれてからそれなりに増えてきた生活用具などをオッサンや早苗さんも含め家族総出で運び出し、親方に借りたワゴン車を使って荷物を運ぶ。それを三往復ほど繰り返して休暇の一日目は過ぎていった。

「思ったより大変だったな……」

夜。必要最低限のものだけが残され、がらんとした部屋を見回しながら呟く。

最後の食事、最後の風呂を済ませて、あとは寝るだけだった。

「でも、いい思い出になったと思います」

そう言って渚が優しい眼差しで見つめているのは、俺たちの愛娘・汐の後ろ姿だ。

今年で小学校を卒業した汐は、来月からもう中学生になる。時の流れは早いものだが、想像以上に強く元気に育ってくれた。

俺のように反抗期になることもなく素直に育ってくれた汐(これは渚のおかげでもある)。親としてどれくらいのことをしてやれたかはわからないが、父として我が子の成長を嬉しく思う。

日々成長する汐と共に、俺は部屋の狭さがだんだん気になるようになっていた。汐自身はまるで気にしていない様子だったが、父としてそろそろ汐にも自分の部屋を与えてやりたい。

そこで数年前から計画していた引っ越しを、汐が中学へ上がるこの時期に決行することになった。

この話を最初に家族談議で持ちかけた時、汐は嬉しさと寂しさが混じったような表情を見せた。

汐は人一倍感受性の強い子だ。いくら狭くてボロくても自分が生まれた時から十数年暮らしてきた家なんだから、それだけ思い入れも大きいのだろう。

そこで自分の思いよりも俺たちの考えを優先しようとするところなどは渚そっくりだ。確かに俺と渚にとっては引っ越し先のほうが仕事場が近くなるという利便性がある。だが俺たちの夢はあくまで汐だ。肝心の汐が喜ばないところへ引っ越すつもりは毛頭なかった。

そこで俺は汐を連れて引っ越し予定先へ赴くことにした。

実は汐も小さい頃に来たことのある場所なのだが、さすがに覚えてはいないようだった。

そこで俺は汐に話して聞かせた。引っ越し先をこの家に決めた本当の理由を。

いい思い出も悪い思い出もたくさん詰まった、この家の思い出を。

真剣な様子で話を聞いていた汐は、笑顔でこの家に"帰りたい"と言ってくれた。

その優しさに、思わず涙が浮かぶ。そしてその優しさを、この思いを、俺を育ててくれたあの人にも伝えたいと思った。

その日、引っ越し先は決まった。

その後はいろいろと細かい手続きを済ませる。

一番大きな手続きは汐の進学先についてだった。引っ越し先からだと学区の関係でふたつある中学校から選択できるのだが、汐は迷わず遠いほう――昔、俺が通っていた中学――を選んだ。確かにそちらのほうが小学校の友達が多くいるとは思うが、通学距離は明らかに遠い。昔と違って今は直線距離を行けるとはいえ、山ひとつを越えなければならない。

理由を訊いたが「ないしょ」と言って教えてくれなかった。気になる男の子がその中学に行くから、とかだったら嫌だな……などと思いつつ、汐に限ってそんなことはない!とすぐに思い直す。

こうして……俺たちは長年暮らしてきたアパートを巣立ち、新しい家へと引っ越しすることになった。

俺たち家族にとって大きな変化となる今年の春休みは、俺にとっても渚や汐にとっても忘れられない思い出となるだろう。

これもひとつの別れ。そして新しい出会いだ。

だからこそ汐は「引っ越しは自分たちの手でやりたい」……そう願ったのだろう。

朝から荷物の運び出しを積極的に手伝っていた汐。タンスを一緒に運んだ時など愛娘の成長に感動したものだ。

「…………」

窓を開けて外を眺めている娘の後ろ姿を、渚と一緒に見つめる。

心なしか、その背中は寂しそうだった。カーテンを外された窓が寂しさをますます募らせる。

窓から見えるこの景色も、今日で見納めだ。

「しおちゃん、あまり夜風に当たりすぎると風邪引きます」

「あ、そうだね」

渚が汐の背にそっとカーディガンをかける。汐は窓を閉めてカーディガンの袖に腕を通した。

「明日も早いから、そろそろ寝よう」

川の字に敷かれた布団へ入ってそう提案する。

「ねぇパパ、ママ、今夜は手を繋いで寝ていい?」

「もちろんいいぞ」

「しおちゃん、まだまだ甘えんぼさんです」

「だって最後の夜だもん」

汐は来年中学生になる割には小柄なほうで、俺たちからすればまだまだ可愛い子供だ。こうして甘えられて嬉しくないはずがない。

「じゃあ今夜はパパが抱きしめて寝てやろう」

「ほんとっ?」

「ダメですっ!」

これはさすがに渚に止められた。

「パパずるいです。わたしもしおちゃんを抱きしめたいですっ」

と思ったら、もっと嬉しい提案をしてきた!

「じゃあ三人でくっついて寝るか」

「うんっ、それがいい」

「だんご大家族みたいです。とても仲良しです」

「だんごっ、だんごっ」

汐が歌い出す。

「だんごっ、だんごっ」

渚がそれに続き、俺も続いて歌い出す。

こうして、この家で過ごす最後の夜は更けていった……。

翌朝。

部屋に残った細かい荷物をすべて車に詰め込み、いよいよ出発することになった。

世話になった近所の人たちに別れの挨拶をして、ワゴン車に乗り込む。

ここで渚と同棲を始めてから十数年。

その長い、長い年月を過ごしたこの部屋に……今は何もなくなったこの部屋に別れを告げて、俺たちは住み慣れたアパートを後にした。

***

「とうちゃーく!」

元気な声と共に、汐が車を降りる。

俺と渚も車を出て、俺たちの新しい家……俺にとって懐かしい我が家を見上げる。

「十年ぶりの帰宅です」

「だな」

「なので、ただいまの挨拶をしましょう」

「誰にだよ……」

「この家にです」

「さっすがママ、いいこと言うねっ。ほら挨拶は大事だよ、パパ」

汐まで渚の提案に加勢してくる。

こうなっては恥ずかしいなどと言っていられない。

「せーの、で言いましょう」

「あたしも言うよっ」

「わーったよ」

俺は腹をくくる。

「せーのっ」

『ただいまっ』

馬鹿みたいに大声で、俺たち三人は帰宅の挨拶をした。

「さ、引っ越しもあと一息だ。昼までに済ませるぞ」

「おーっ!」

玄関をくぐり、鍵を開けて家の中に入る。

外観はあまり変わっていないこの家だが、中はさすがにあちこち傷んでいたのでリフォームしてもらった。

築四十年以上の代物なだけあって下手すると新築を買うより金がかかるんじゃないかと危惧していたが、以前世話になった借家であるこの家の持ち主の厚意で家を譲り受けることになり、家賃の問題がなくなったことで結果的には安く済んだ。

「でかいもんは昨日あらかた運び終わったから、あとは細かいもんの整理だけだな」

「わたしは台所を整頓します。この家で最初にする家事は、お昼ご飯を作ることですから」

「あたしも手伝うっ」

「お願いしますね、しおちゃん」

「じゃあ俺は残りの荷物を運んでいく。家具の位置を変えたいなら今のうちに言ってくれ。物が増えたら動かしにくくなるだろうからな」

「はい。その時はパパを呼びます」

「おう、いつでも呼んでくれ。飛んでいくから」

台所をふたりに任せて、俺は車に戻った。

「……ふぅ」

車のバックドアを開けて荷物を降ろしたところで思わず息をつく。

普段から力仕事に慣れているとはいえ昨日はかなり重量があるものを何度も運んだため、筋肉痛……というか腰痛になっていた。

俺も年か。スポーツ選手なら引退させられるような年だしな……。テレビで活躍している選手がほとんど俺より年下だったりするのを見ていると、そんな実感も大きくなる。

「パパぁーっ!」

昨夜の夕食で使った折り畳み式のテーブルを運んでいると、汐の声がした。

俺はテーブルをその場に下ろし、台所に顔を出す。

「どうした?」

「えへへ、呼んでみただけー」

汐が可愛らしく舌を出して笑っていた。

「こらっ」

「ごめんなさーいっ」

左手を上げて小突く真似をしてみせると、おどけた様子で片目を閉じながら謝ってみせる。くそっ、我が娘ながら最高に可愛いじゃねぇか……。

「しおちゃん、パパの邪魔しちゃダメです。炊飯器はこっちの台に置きますので、持ってきてください」

「はーい」

思わず娘と嫁に見惚れてぼーっとしてしまった。ここで楽しそうにご飯を作っているふたりを想像しただけで年甲斐もなく心躍った。

「これは……」

荷物を半分くらい運び終えた頃、見覚えがあるものを見つける。

「懐かしっ」

それは俺が昔使っていたバスケットボールだった。

親父が田舎へ帰り、この家に残されたものを売りに出した時、思い出に取っておいたものだ。

数年前、汐がバスケに興味を持った時にあげたんだが、まだ持ってたのか。バスケの話をぜんぜんしなくなったから飽きたのかと思ってたが。

「……」

二、三度ドリブルしてみる。手応えもいい。ボールにはしっかり空気が入っていて、普段から手入れしていることがわかった。

「へい、パスっ!」

声に反応して思わず反射的にパスを出してしまう。

勢いよくバウンドしたボールをきちんとキャッチしてみせた声の主……汐は、そのまま流れるような動作で家に向けて――開けられた二階の窓に向けてジャンプシュートした。

「ゴール! スリーポイントっ」

窓の中へと吸い込まれるように消えていったボールを見送って、汐がガッツポーズをとる。

「……スリーポイントには近すぎるな」

「厳しいなぁ~」

「つーか、続けてたのか」

「何が?」

「バスケだよ」

「あったりまえでしょ」

「てっきり飽きたのかと思ってたぞ。次々と違うことに興味持ってたし」

「それは、やりたいことが増えていってるだけ」

「そうなのか……すげぇな、おまえ」

「欲張りだから、あたし。わがままな娘でごめんね」

そう言って可愛く舌を出す娘だったが、こいつほどわがままを言わない子も珍しいだろう。

普段から何かをねだったりすることがほとんどないような子だ。その代わり、稀にとんでもない提案をして俺たちをハラハラさせてくれるんだが。世界一周とかな。

「ねぇパパっ、あたしも手伝う」

「ママのほうはいいのか?」

「うん、今はお昼の準備してる。パパのお手伝いしなさいって」

「そうか。じゃあ頼む」

「これは二階に運ぶんだよね?」

「ああ、残りはパパが持っていくから」

「うんっ」

昨日の疲れを感じさせない若さ溢れる我が娘の助力もあり、本日の引っ越し作業は一時間程度で終わった。

「パパぁーっ!」

残った小物類もぜんぶ運び終えたところで、隣の部屋から汐の呼ぶ声がした。

俺が小さい頃に暮らしていた二階の部屋。それが汐の選んだ部屋だった。

四畳半。今見ると意外に狭く感じるその部屋へ入ると、汐は窓際のベッドに腰かけていた。

「どうした? また呼んだだけか?」

嬉しそうに両脚をぶらぶらと揺らしていた汐は、跳ねるようにしてベッドから立ち上がる。

「ここ、昔パパが使ってた部屋なんでしょ?」

「ああ、よくわかったな」

汐は両手を大きく広げて深呼吸する。

「パパの匂いがするんだ……」

「そうか?」

「うん、優しい匂い」

「よくそんな恥ずかしいこと言えるな。まぁ、十年以上使ってた部屋だからな……」

女の子らしいものと男の子っぽいものが入り混じった娘の部屋を見回す。

窓、壁、天井……内装は変わっても、そこかしこに昔の記憶を呼び起こすものが見受けられた。

「正直、あんまりいい思い出はないけど」

「それじゃ、これからあたしがいい思い出作るね。パパとの」

「汐……」

「えへへっ」

笑顔ひとつで俺の気分を穏やかにしてくれる。

ああ……やっぱりおまえは渚にそっくりだ。母親似の可愛くて優しい子だ。

「しおちゃーん、パパー、お茶が入りましたよー」

「はーい!」

「おうっ! 今行く」

下の階から聞こえた渚の声にふたりして答えると、俺たちは階段を下りて居間へと向かった。

「しおちゃん、朋也くん……」

お茶を飲み終えて昼飯の時間までのんびりとしていると、急に姿勢を正した渚が重々しく口を開いた。思わず俺たちも正座して背筋を伸ばす。

「今日からまた、新しい生活のスタートです」

「だな」

「うんっ」

「ふたりとも、これからもよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いしまーすっ」

「よろしくな」

三人、テーブルを挟んで頭を下げ合う。

おかしな風景だった。

「……ん?」

そこで聞き覚えのある懐かしい音。

玄関のチャイムが鳴っていた。

「朋也くん」

いつもならすぐに渚が迎えに出るところだが、今回の客ばかりは俺が迎えなければならない。

「ああ……」

俺は腰を上げ、玄関に向かう。

ドアを開くと、そこに立っていた客人に……いや、家族に向けて出迎えの挨拶をした。

「おかえり」

親父は一瞬目を見開いたが、すぐに目を細めてそれに答えた。

「ただいま、朋也」

――終わり。

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感想などをお題箱で伝えてくれたら嬉しいです!

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関連SS

後書き

CLANNAD10周年記念SS第20弾、朋也アフターでした。

娘が海外に行く旅費を賄えるほどの甲斐性を持てた朋也がいつまでもあの狭いアパートで暮らすとは思えないので、以前汐SSでちょこっと書いたけど、今回は朋也の実家に引っ越すシーンを想像して書いてみました。汐が朋也の通っていた中学を選んだ理由についてもあからさまにシーンを入れて想像できるようにしたつもりですが、関連SSで答えを"ちょこっと"書いてます。

ともあれ理想的な家族像を目指す岡崎家SS、楽しんでもらえたら嬉しい。