「愛ちゃんにお願いがあるんだ……」

中学3年の冬。

年も明けて一月あまり。卒業を間近に控えて周囲が慌ただしくなっていく中、岡崎汐は後輩であり幼なじみであり親友でもある芳野愛に、こう切り出した。

「ど、どうしました汐さん、いつになく真剣な顔つきで……」

美術系以外はほぼ万能と言っていい汐が、愛に相談を持ちかけることは珍しかった。

やっぱりこの時期になると、汐さんでも悩むことがあるのだろうか……などと心配しつつも、親友として力になりたいと愛は思う。

この時期の3年生は、高校受験をすでに終えた生徒と直前に控えた生徒との温度差が激しい。

当の汐は受験を直前に控えた側なので、ナーバスになるのも無理はなかった。しかも受験するのが町一番の進学校として有名な高校だったらなおさらだ。

「あの、何か悩み事があるなら相談に乗りますけど……私でよければ」

「ほんとっ?」

控えめに告げた愛の提案を聞いて、汐の表情がぱあっと明るくなる。

その無邪気な笑顔に釣られて愛も自然と笑顔になる。汐にはいつも助けてもらってばかりの自分が、少しでも力になれることが嬉しかった。

「えっと、ね……」

いつものハキハキした口調とは打って変わって歯切れ悪く、汐は話を切り出す。

「て、手作り、チョコ、なんだけど……」

「……え?」

「だ、だからっ。もうすぐバレンタインでしょ? 今年は手作りチョコにしたいんだけど、あたし不器用でうまく作れる自信ないから……そういうのが得意な愛ちゃんに特訓してもらいたいの!」

「えぇぇー」

予想と大きく外れた汐の"お願い"に、愛の体からへなへなと力が抜けていった。

ちょこっとLove for You

「岡崎先輩の手作りチョコ、だと……!」

脱力していく愛と反比例するように、周囲がにわかに騒がしくなっていく。

ここは2年のクラスが並ぶ廊下。そして今は放課後。いろんな意味で目立つ存在である汐の言葉に耳を傾けている野次馬が結構いたようだ。

「相手は誰だっ、そんなうらやまけしからん!」

「俺も欲しいぞぉーーっ!」

「義理でいいから俺にもくれぇーっ!」

「私も今年は手作りにしよっと。岡崎先輩にプレゼントするんだ~」

「あ、ずるーい! 私も私もっ」

バスケ部のキャプテンとしてだけでなく、他の運動部の助っ人として……果てや文化部のスーパーバイザー(部員たちはそう呼ぶ)としても活躍していた汐は、ここ緑ヶ丘中学の名を全国に知らしめた立役者として有名で、2年生の間でも男女問わず人気がある。そんな汐を愛は尊敬し、親しい友人として誇らしく思っていた。

その汐が自分を頼ってくれているのだ。何事であれ、私なんかで力になれるなら……と、愛は気を取り直す。

「えっと……特訓、ですか?」

「うん、特訓。崖の上から転がってくる岩を素手で受け止めたり、クレーン車に吊るされた鉄球を素手で受け止めたりするやつ」

「それ、私の知ってる特訓と違う……」

「冗談冗談。愛ちゃんの知ってる特訓でいいから」

バスケ部だからか、それとも父・朋也や祖父・秋生の影響からか、汐は非常に体育会系寄りの思考をしている。年頃の女の子らしくバレンタインデーが気になっていても『特訓』という単語が普通に出てくる辺り、それを如実に表していた。

「特訓とかできるほど手作りチョコの経験はないんですけど……私でよければ手伝わせてください」

「愛ちゃんありがとーっ! 愛してる!」

「そ、そういうこと大声で言うと、また前みたいに変な噂が立ちますってばっ」

「おっとと。口は災いの元ってね」

周囲の評価や噂話の類いをまるで気にしない汐だったが、愛を巻き込むことは本意ではない。とっさに両手で自分の口を塞ぐ。

校内一の有名人として人気がある汐だが、不思議と浮いた話はまったく聞かない。そこで汐と特に仲が良い愛が、性別の枠を越えて無責任な噂の的になってしまうこともあった。

さっき名前の挙がった父や祖父が、娘(孫娘)可愛さに恋路を妨害しているらしいという冗談みたいな噂もあるが、そのふたりと面識がある愛はそれが噂ではなく事実なのではないかと危惧している。

「ここだとなんだし、一緒に帰ろっか。今日は部活、大丈夫?」

「ええ、今日はありません。じゃあ鞄を取ってきますから、ちょっと待っててくださいね」

通い慣れた通学路をふたり並んで歩きながら話を続ける。

「てっきり高校受験の話だと思ってたんですけど……汐さんらしいですね」

「そっちはやるべきことはぜんぶやったから、あとは座して天命を待つだけだよ。今さらジタバタしたって変わらないし」

「汐さんならきっと大丈夫ですよ。あ、でもバスケットボールの全国大会で優勝したじゃないですか。推薦入学だったら受験は免除されると思うんですけど……」

「確かに推薦だと補助金も出るし、あたしも最初はそうしようと思ったんだけどね。でもそれはバスケ部に入ることが条件だから」

「バスケット、続けないんですか?」

「もちろんバスケはこれからもずっと続けていくつもりだけど、高校でバスケ部に入る気はないんだ」

不意に足を止めた汐は、歩道脇のガードレールに手をついて眼下に広がる町の景色を眺める。中学に入ってからの3年間で大きく変わったその風景に、汐は目を細めた。

「バスケはね……パパの夢だったんだ。全国大会であたしたちが優勝した時のパパの嬉しそうな顔、あたし一生忘れないよ」

数ヶ月前の光景を思い出し、汐の顔が綻んだ。

「でもね……」

言葉を区切った汐は、ガードレールから手を離して歩き出す。愛も同じように汐の隣に並んで歩き出した。

「高校に入ったら、あたしは演劇部に入るつもり。ふぅちゃんが卒業してからずっと廃部になったままかもしれないけど、もう一度再建してでも演劇をしたい」

「演劇、ですか? なんでまた……」

そう言いかけたところで、愛は思い出した。汐の母……渚の話を。

「もしかして、汐さんのお母さんの……」

「うん、演劇はママの夢。あの坂の上の高校でパパと出会って、一緒に演劇部を再建した」

汐が今度は上に……空へと目を向ける。愛も釣られて空を見上げた。雲ひとつない青空がどこまでも続いている。

「あたしはその夢の続きを演じたいと思ってる」

「すごいですね、汐さんは。叶えちゃうんですよね……やりたいこと、ぜんぶ」

「あたし欲張りだから。でもさ、ひとりじゃ決して叶えられなかったことだよ。バスケだって、チームのみんなでがんばったから優勝できたんだし……」

汐が愛を見つめる。愛もすぐにそれに気づいて、ふたりは見つめ合う。それは幼なじみの親友ならではのアイコンタクトだったが、周囲が曲解するのも無理はない雰囲気だった。

「現に今だって、愛ちゃんに頼っちゃってる」

「そんなこと……気にしないでください」

愛としてはもっと頼ってほしいくらいだったが、自分に自信が持てない愛にはそれを口に出すことはできなかった。

真正面から自分を見つめ続ける汐に照れくさくなってきた愛は、話題を変える。

「ところで汐さん、手作りチョコレートということはその……いわゆる本命、ですよね?」

「うん、パパにあげるの」

さらっと答える汐に対して、愛はほっと胸を撫で下ろしながらもどこか心配になってしまうような……そんな矛盾した心境になる。

汐が絶大な人気を誇りながらも浮いた話ひとつ聞かないのは、彼女が重度のファザコンであることも一因だった。小さい頃は将来の夢が『パパのお嫁さん』だったらしい。

愛自身、反抗期を経験することもなく素直に育ち、家族仲はとても良いのだが、そんな愛から見ても汐のパパLOVEっぷりは相当なものだった。

そもそもこの年でまだ『パパ』と呼んでいること自体、一般的には珍しいのだが、小学生の頃クラスメイトにからかわれた時も決して周囲に屈することなく……というより周囲の言葉をはねのけた挙げ句にひっくり返すほどで、現在にいたるまで頑固にパパと呼び続けてきた。

「パパは甘いの苦手だから、作るのもビターチョコがいいかなって思うんだけど」

「そうですね、私もそれでいいと思います。じゃあ、まずはチョコレートを買いに行きましょうか」

「え? あたしはチョコが作りたいんだけど」

「ですから、まずは材料を買ってこないと」

「えーっと……カカオの実が何個かいるよね、カカオバターも作らないといけないし。あと粉糖もいるからさとうきび――いや甜菜かな。あ、でもビターチョコなんだからカカオバターと粉糖はいらないのか」

「そこから作る気ですかっ!?」

汐の無茶な計画に愛は全力でツッコんでみせる。その豊富な知識でチョコレートの原材料をあっさり言ってのける汐だったが、調達が困難な代物ばかりだった。

「何もそこから作らなくても、市販のチョコレートを溶かして作ればいいんですよ」

「えぇー、それ手作りって言えるの? 形を変えてるだけじゃん」

「カカオの実から作る方法なんて私は知りませんからっ」

「あ、ごめんごめん。拗ねちゃいやーん」

「別に拗ねてません。とにかく材料は必要ですから、あとで買い出しに行きましょう」

「となると……やっぱり駅前かな」

母の教えによって寄り道を一切しない子に育った汐は、ひとまず途中で愛と別れるとまっすぐ家に帰って鞄を置き、手早く着替えを済ませて再び家を出る。そして待ち合わせ場所の定番である駅前広場で愛と合流し、すぐそばにあるスーパーへと足を踏み入れた。

「結構混んでますね」

さっそくお菓子コーナーに向かったふたりだったが、そこは同年代の女子の姿で賑わっていた。

「みんな考えることは同じなんだね。うーん……やっぱりカカオの実にしようかな」

「まだ諦めてなかったんですか。そういうのは今回のが普通にできたらステップアップしていきましょう」

「残念……」

諦めきれない様子の汐を尻目に、愛は手早く目当てのものをいくつか取ってくる。

「この板チョコなんてどうですか? 何個か使えば大きめのも作れそうですよ」

「うん、普通だね。あたしはもうちょっと独創性が欲しいかな」

「ど、独創性ですか……?」

これまで汐の"独創性"をその目で何度も見てきた愛は嫌な予感がした。

「愛ちゃん、これこれ、これで作ろう!」

その後、汐が目を輝かせて取ってきたチョコを見て、愛は目が点になる。

「ビッグマーブルチョコレート……。そんな溶けにくそうなチョコで一体どうやって作る気ですか……」

「顔書いたら、だんご大家族っぽくできるかな、って思って。ほら、でっかいチョコの山を作ってさ、その上にこれを散りばめるの。だんご大家族チョコ~みたいな。あ、だんご大家族だし、ママにも作ろうかな」

とんでもないアイディア。こういうセンスは母・渚……そして祖母・早苗譲りだ。

「ただでさえ苦手だっていうものの難易度をさらに上げるような真似はやめてください」

「何事も挑戦だって。ね?」

「どうなっても知りませんよ、私」

「あ、そうだ。きのこのマウンテンと、たけのこのカントリー、すぎのこビレッジもついでに買っていこう」

「それ、もうチョコレートじゃないです……」

愛がため息と共に吐き出すツッコミに対し、なぜか汐は残念そうな表情をする。

「うーん……そこは、『すぎのこビレッジはもう売ってないです!』ってツッコんでほしかったんだけど」

「いや、知りませんって。なんですか、それ?」

「きのこのマウンテンの姉妹品。パパやママが生まれた頃、売ってたんだって」

「そんなの私が知りえるはずないじゃないですか……」

もしかして汐さん、ただ騒いで遊びたいだけなんじゃ……そんな気が愛はしてきた。この調子だと先行きがかなり不安だ。愛はもう一度、今度は深くため息をついた。

***

バレンタイン直前の休日。汐は愛の家……芳野家を訪れていた。

「おはようございまーす!」

「しおちゃんいらっしゃーい! 準備できてるよ」

「ありがとっ、今日はよろしくね」

「うん、私にできる限りのことはするつもり」

先日と比べて砕けた口調、そして先日とは異なる呼び方で、愛が汐を出迎える。

小さい頃はずっと今のような調子で汐に接していた愛だったが、汐が中学に入った頃から学校や外では丁寧な口調で喋ることが多くなり、汐のことを『汐さん』と呼ぶようになった。それは学校では後輩にあたる愛が汐を尊敬しているがゆえに変えたものであったが、当時の汐にとっては距離が遠くなったようで寂しかった。

だが3年の月日を共に過ごして、愛が変わるのは口調と呼称だけで態度がよそよそしくなるわけでも心の距離が遠くなるわけでもないこともわかり、愛の本当の姿を知っているのが親友の自分だけであることを嬉しく思うようにもなった。

「汐ちゃん、いらっしゃい」

「お邪魔します。キッチンを借りますね」

「ええ。頑張ってくださいね」

「がんばります!」

同じく出迎えてくれた愛の母・公子に見送られ、ふたりはキッチンへと向かった。

汐が小学校を卒業する頃、アパートの一室から朋也が以前暮らしていた実家へと引っ越した岡崎家だが、昔から何か特別なものを作る際には芳野家のキッチンを使わせてもらっていた。

「そういえば、今日はふぅちゃん来てないんだ」

芳野家の廊下を歩きながら何か物足りないような気がしていた汐は、広いキッチンに入ったところでその存在を思い出した。

「うん、最近は忙しいみたい」

「やっぱり、ふぅちゃんがいないと静かだね」

「うん……」

数年前まで芳野家には公子の妹……愛の叔母にあたる風子が同居していた。愛にとって風子は叔母というよりも姉のような存在であり、実際『お姉ちゃん』と呼んで慕っていた。

「ふぅちゃんがいないと寂しい?」

「うん……やっぱりちょっと寂しいかな。でもこの町に住んでるんだし、時間が合えばこちらから会いに行くことだってできるから」

高校入学時に事故に遭って長い間病院で眠り続けていた風子は、汐が生まれた日にその長い長い眠りから覚め、リハビリを終えると高校に復学した。無事卒業した現在は高校時代に出会った男性と結婚し、一児の母としてこの町で暮らしている。

「あたし、ふぅちゃんとはよく町なかで会うんだよね。あたしがどこにいても匂いでわかるんだって」

「ふふっ……昔から言ってたね、それ」

「匂いとか言われても困っちゃうけど。獲物を狙う獣じゃないんだから」

「でも風子お姉ちゃんは本気でしおちゃんを妹にするつもりだったみたいだよ」

「うーん……愛ちゃんのお姉ちゃんになれるのは魅力的だけど、やっぱりあたしはあたし、岡崎汐だから」

「風子お姉ちゃんの妹だったら、私にとっては叔母さんなんだけどね」

「あ、そっか。それはやだなぁ……」

冗談めいた口調で、ふたりは笑い合う。

和やかな空気の中、いよいよ汐の"特訓"が始まった。

「ではそろそろ始めましょう」

「おっ、愛ちゃん先生モードだね。今日は特訓よろしくお願いします、おやっさん!」

「誰がおやっさんですかっ」

思わずいつもの調子でツッコんでしまった愛は、いつのまにか汐のペースに乗せられている自分に気づく。そんな愛を、汐が嬉しそうな顔で見つめていた。

「……こほん。始めますよ」

「おーっ!」

ごまかすように咳払いをひとつして促す愛に応えて、汐はかけ声をあげながら握りこぶしにした片手を力強く振り上げた。

「ではまず、チョコレートを細かく削って湯煎しましょう」

「破壊、そして創造……まずは破壊だね。まっかせて!」

「あ、ちょっとっ」

「チョコクラッシャーッ! バッキバキ~ッ!」

愛の制止も聞かず――というか間に合わず、汐は変な掛け声と共に板チョコを素手でバラバラにしてしまった。

「ああぁ……いきなりレシピと違う流れに……」

「え? 違うの?」

「いえ、別にいいです。こうなるような気はしてたから……」

汐の突飛な行動に慣れている愛は、すぐに気を取り直す。

「さて次は……削ったチョコレート――というか砕いたチョコレートかな、この場合。それをこのボウルに入れましょう」

「ほいさっ!」

「……さっきからすごくテンション高いね」

「いや~、なんだか楽しくなってきちゃってさー」

その後、愛は本来の流れに戻そうとレシピにない項目を追加した。そのアレンジが功を成し、ボウルの中の荒削りなチョコレートは細かくなったが、その破壊活動を経て汐のテンションはますます高くなっていった。

「ええっと次は……大きめのボウルに50度くらいのお湯を張って湯煎します」

「湯煎ね。やり方はわかるけど、やったことはないな。よーし、挑戦だ」

汐は腕まくりをして、大きめのボウルを手に取る。

「えーっと、まずはお湯を張って……」

「気をつけてね」

「うん、大丈夫」

「いや、手が震えてるから」

「武者震いだよ。ふふふふ……」

「興奮する気持ちはわかるけど、しおちゃん少し落ち着いて」

「無理!」

「えぇーっ!」

思った以上に気分が高揚している汐の一挙手一投足に、愛は終始ハラハラさせられっぱなしだ。

「その上に、チョコが入ってるボウルを乗せて……溶かす」

「ボウルにお湯が入らないように注意してね」

「うん、アドバイスありがとう愛先生。でも、もうちょっと早く言ってほしかったな」

「いや、これ以上早くは――って、まさか……」

「うん、やっちゃった」

「ええええぇぇーーっ! なんで!? 早すぎ!」

汐が手に持ったボウルをテーブルの上に置く。その中にはチョコレートだけでなく、結構な量のお湯が入ってしまっていた。

「どばーっとお湯に浸したら一発でした。いやぁ失敗失敗」

「これじゃ、もう固まらないよ……」

「だよね。どうしよう……」

「うーん……これは後でホットチョコドリンクにでもしましょう。もったいないし」

「さっすが愛先生! やりくり上手ぅ!」

「しおちゃんはとにかく少し落ち着いてね。さっきからテンション高すぎだから」

「はーい、ごめんなさーい」

汐の特訓は、始まって間もないうちから暗礁に乗り上げてしまうほど前途多難だった。

「できたあっ!」

「よかった……これでようやく次のステップに進める……」

早くも疲れた様子の愛とは対照的に、まだまだ元気な汐は満面の笑顔でうんうんと頷く。

「いや~、何かをやり遂げた時の達成感は格別だねっ!」

「まだ途中だけどね……」

「一歩ずつでも前に進めば、いつかはゴールに辿り着くよ」

「途中で『ふりだしに戻る』を踏む可能性があるから怖いんだけど」

愛はため息をつきながら、汐が第1ステップで出した犠牲に目を向ける。ホットチョコドリンク何杯分になるんだろうか。考えただけで胸焼けがしてきそうだった。

「気を取り直して、次は……溶かしたチョコをゆっくりとかき混ぜながら、水で冷やしていきます。ボウルに水が絶対入らないように!」

「うおぅ、了解。さっすが愛先生、素早いツッコミ。あたしもこれ以上失敗したくないから慎重にいくよ」

「時々ボウルを冷水から外して、ゆっくり冷やしてね。その時も常にかき混ぜ続けてチョコの温度を一定に。勢いよく混ぜると気泡が入っちゃうから気をつけて」

「オッケー」

失敗を繰り返して落ち着いてきた汐は、この行程を失敗せずにくぐり抜けた。

「チョコの温度が25度くらいになったら水から外して、再度湯煎します。ただし2秒ほど当ててからすぐ外してかき混ぜる……この行程を5分ほど繰り返して30度くらいまで上げます」

「テンパリングだね。温度調節なら任せて!」

理科の実験に感覚が近くなってきたからか、汐は一般的に難しいとされるこの行程も難なく突破した。

「うんっ、いい感じ!」

「28度……ちょうどいい温度だね。じゃあ最後は型に入れて、気泡を取ってから冷蔵庫で15分ほど冷やします」

「ここはもちろんハート型で。ラブハート!」

「せっかく落ち着いてきたんだから、あまり興奮しないように。落ち着いてやったら、しおちゃんが失敗するはずないんだから」

「それは過大評価だって。落ち着いてても失敗する時は失敗するよ」

そう言いながら汐は、慎重にチョコレートが載ったトレイを冷蔵庫に入れた。

そして15分後……。

「どーれ、固まってるかな~?」

「あ、不用意に触っちゃ――」

冷蔵庫を開け、その中へと無造作に手を伸ばす汐を愛が慌てて制止する。

「愛先生、まだ固まってませんでした……」

……が、遅かった。ハートチョコのド真ん中に人差し指をめりこませた汐が、苦笑いを浮かべながら振り返る。

「だから言ったのにぃ~」

「もうちょっと早く言ってほしかった」

「だからっ、しおちゃんの行動が早すぎるの! これ以上早く言えないからっ」

「……ごめんなさい」

待っている15分の間に再びテンションが上がってきたせいか、またしても汐は迂闊な行動を取ってしまった。愛の正論に対して、素直に頭を下げる。

「ハートをズキューンってぶち抜いちゃったんだけど、もしかしてこれもチョコドリンク行き?」

「うーん……もう一度湯煎して作り直そうか。もったいないし」

「さっすが愛先生! 所帯じみてるぅ!」

「それ、誉めてないから」

こうして汐の特訓は、失敗と成功を何度も繰り返しながら続けられた。

数時間後。

キッチンはチョコレート独特の甘い香りで充満し、テーブルの上は汐が作ったチョコ(失敗作を多数含む)で埋め尽くされていた。

「いっぱいできたねっ」

「結局買ってきたチョコレート――というかお菓子も含めてぜんぶ使っちゃったし、ちょっと作りすぎかも」

「愛ちゃんが途中お手本に作ってくれたチョコが一番おいしそう。さっすが愛先生だね!」

「そ、そうかなぁ。でも……うん、自分でも上出来だと思う。しおちゃんのチョコもおいしそう。テンパリングが上手だから、私のより滑らかで味もおいしいよ、きっと」

「えへへっ、愛ちゃんにそう言われるとうれしいな。愛ちゃんもそのチョコを好きな人にあげたら?」

「ええっ? そんな人いないよ……」

「もったいないなぁ。愛ちゃん、結構男子に人気あるんだよ」

「そんな、私なんて……」

愛は汐のクラスメイトを始めとする上級生の間で密かに人気がある。目立つ存在の汐と小さい頃からずっと一緒にいたからか自分を過小評価しがちな愛だが、汐から見れば自分にない魅力を持った女の子らしい女の子だった。

「じゃあお父さんにあげたら?」

汐の提案に、愛は去年のことを思い返す。

父の日や母の日には毎年プレゼントを贈っている親孝行な愛だったが、去年の6月は絵画コンクールの締め切りが近いこともあって忙しく、結局何もプレゼントできなかった。父・祐介は気にしていない様子だったが、汐経由(厳密には汐の父・朋也経由)で聞いたところ、やはり残念に思っていたらしい。

「……うん。せっかく作ったんだし、もったいないからそうしようかな」

「うんうんっ。きっと愛ちゃんのお父さん、小躍りして喜ぶよ」

「いや、小躍りはしないと思うけど」

「うちのパパは毎年小躍りどころか喜びのあまりツイストを踊るけどね」

「そ、そうなんだ……」

うちのお父さんがそんな風に踊ったら嫌だなあ……と、しみじみ思う愛だった。

***

バレンタイン当日。

朝から娘にチョコをもらって年甲斐もなく浮かれ気分な岡崎朋也は、にやけた顔を隠そうともせず仕事場に入った。

「おはようございまーす!」

「おはよう、岡崎くん。朝からご機嫌だねぇ」

「おはようございます親方! 今日も頑張るっすよぉー……って、あれ?」

上機嫌で事務所に入り、親方と挨拶を交わしていると、見慣れた背中が目についた。

自分の立てたスケジュールを脳内に浮かべて、この時間だとまだ早いのではないかと疑問に思いながら声をかける。

「おはようございます芳野さん、今日は早いっすね」

「おお、岡崎か……ふっ、ふふふ……」

振り返った芳野は朋也以上のにやけ面だった。今にも笑い出しそうになるのを必死で堪えているようだが、堪えきれずに含み笑いが漏れている。

「ど、どうしたんすか。なんかすげぇご機嫌みたいっすけど」

「ああご機嫌だぞ。今にも叫び出したい気分だ」

「なにかいいことでもあったんすか?」

「今朝、娘に……愛にチョコをもらったんだ! しかもハート型だぞヒィイーーーーヤァーーッホォォオオゥゥゥゥーーッ!!」

言ったそばから叫び出していた。愛娘と接する時の芳野は大抵こんな調子だが、さすがに今回は朋也も引いてしまうほどの高揚っぷりだ。

「イヨェェエェエエーーーーゲホッゲホッ」

途切れることなく叫び続けたせいか、咳き込んでしまう。

「ァァァァァァアーーーー」

喉が枯れてもなお叫び続けている芳野を見て、朋也は思った。俺も今朝、汐からハート型の手作りチョコをもらったんだけど黙っておこう。

「次の曲が浮かんだぞ! ラブ・アンド・チョコレートだっ!」

「はあ……」

生暖かい視線で見守る朋也に対し、芳野のテンションは今にも天を突くほどの勢いで昇り続ける。

「ホワイトデーまでに完成させてやるぞ。待ってろよ、愛……」

「えーっと……まあ、愛ちゃんが引かない程度に頑張ってください」

同じ父親として、また同じ親馬鹿として、朋也は落ち着いた様子で芳野にエールを送った。

一ヶ月後……。

父からラブソング「Love&Chocolate」を贈られた愛が、引くのを堪えながらかろうじて礼を言い、ひきつった笑顔を浮かべたのは言うまでもない。

――終わり。

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感想などをお題箱で伝えてくれたら嬉しいです!

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関連SS

後書き

にしなど初のバレンタインSSとなりました。汐が"町"と共に歩んでいく未来の一端と、風子の時系列補完を主に、トゥルーエンド後の私的脳内妄想も小出しにしてます。

汐の中学時代を補完しつつ、汐が父と母の夢を叶える部分をちょこっとピックアップしてみました。バスケの全国大会優勝シーンとか書きたいけどうまく書けない。

そして今回のもうひとりの主役である愛ですが、細かい設定をあまり決めずに書く傾向にあるので「汐騒」で初登場して以来、書いてるうちにちょっとキャラが変わってきてる気がしないでもない。砕けた口調になると汐とセリフの区別がつきづらくなるのが難しかった。

ともあれ久しぶりの短編SS、楽しんでもらえたら嬉しい。