「いってらっしゃい、パパ」

「おう、いってくる」

いつものように仕事に出かけるパパを、ママと一緒に見送る。

「今日から汐も高校生か……」

「うん、楽しみ」

「ははっ、楽しんでこいよ」

「えへへ……」

パパは笑顔であたしの頭に手を置くと、くしゃくしゃと髪を掻き乱すように撫でてくれる。

ごつごつしてておっきなその手が、あたしは大好きだった。

一時間ほど後。次はあたしが出かける番だった。

「いってきます、ママ」

「いってらっしゃい、しおちゃん」

「ママがパパと出会ったあの坂道で、あたしも誰かに会えるかな?」

「しおちゃんにも素敵な出会いがあるはずです。きっと……」

「えへへっ、楽しみ~」

ママも笑顔であたしの頭を優しく撫でてくれる。

小さくてあったかいその手が、あたしは大好きだった。

「いってきまーす!」

手を振って見送るママ、その横にいつの間にかやってきて勝利のVサインをしているアッキーと「ファイトっですよ」と両手を握っている早苗さん……三人に大きく手を振って玄関を出る。

雲ひとつない青空を見上げながら、ママからもらったリボンをきゅっと結ぶ。パパのお母さんがつけていたこのリボンは、あたしのお気に入りだった。

新しい制服、新しい学校、そして……新しい友達。

そこには、あたしの知らない世界がある。あたしの探究心を刺激する何かがある。

大きな夢と期待を胸に、あたしは高校生活の第一歩を大きく踏み出した。

CLANNAD 10years after ~汐~

学校までは、直線距離で二十分ほど。

ただし、それには長いトンネルを歩いて抜けなくてはならない。

朝から車通りの激しい場所を通ったら、せっかくの新しい制服がすすまみれになってしまう。

だから初日くらいは時間に余裕を持って、山を迂回する道をゆっくり歩いていくことにした。

それにこの道は、トンネルもなかった頃にパパが登校していた道だ。

そう考えると、自然と足取りも軽くなった。

しばらく歩くと、山あいにあるファミレスが見えてくる。

ここは今もママが働いている場所だった。

あたしも自分のわがままで払うことになった学費くらいは自分で働いて返したい。幸いアルバイト禁止の規則はないようなので、働けるならここで働きたいと思っている。

『IN→』と書かれたおっきい看板の前に差しかかったところで、見覚えのある人たちがちょうど店から出てくるのが見えた。

「先生ーっ!」

大きく手を振ってみせると、向こうもこちらに気づいたみたいで三人ともあたしのところまでやってくる。

「おはようございます、汐さん」

「汐ちゃん、可愛いっ」

「その制服、汐ちゃんにとっても似合ってるの」

音楽教室のりえ先生。サッカーの先生にして早苗杯ゾリオン大会では最大のライバル、芽衣さん。理論物理学のことみちゃん先生だった。

「三人揃ってどうしたんです……って、芽衣さんは仕事中ですね」

「そうそう。汐ちゃんの顔が見えたから、ちょっとね」

「ママもそろそろ来ると思うので、よろしくお願いします」

「いえいえ、こちらこそ。渚さんにはお世話になりっぱなしで」

お互いにかしこまって頭を下げ合う。なんだかおかしくて笑ってしまう。

「高校の友達は一生の友達だから、汐ちゃんもあの学校で新しい友達、見つけるといいよっ」

「うんっ」

せわしなく店に戻っていく芽衣さんを見送る。

「汐さんももう高校生……時の流れは早いですね」

「時間という実体のない概念は人には把握しきれないけれど、経験という形で意義を見出せると思うの」

「経験か……あたしにはまだまだ足りないなあ」

「汐ちゃんは、私より経験という形はずっと大きいと思うの」

「経験値ってこと?」

「??」

「いや、そこでハテナで返されても困るんだけど」

「あはは……」

りえ先生とことみちゃん先生は、ここで偶然出会って、さっきまで一緒に朝食を食べていたらしい。

「汐ちゃん、よかったら車で送るの」

「いえ、時間はまだまだありますし、歩いていきたいんです」

「残念……」

「高校生活の初日ですものね。汐さん、いい思い出、作って下さいね」

「はーい!」

ふたりに見送られて、あたしはファミレスを通り過ぎる。

少し歩いた頃、二台の車……白い車と黒い車があたしの横を通りかかった。

あたしが運転席に向かって手を振ると、二台ともクラクションを小さく鳴らしてから、まっすぐに続く道をすごい速度で走り出し、すぐにその姿は見えなくなった。

うーん、ふたりとも普段の言動とのギャップがすごいなぁ。

十五分ほどかけて、駅前に辿り着く。

山側にはトンネルの出入り口が見える。トンネルを抜けてくれば、ここまでショートカットできるわけだ。

駅前商店街の楽市通りを抜ければ、目的地まであとわずかだ。

ここまで来ると、周囲に同じ制服を着た生徒たちがぽつぽつと見えてくる。

その中に、目立つ一団がいた。

見覚えのある服を着た小さな子供たち。その子たちを引率するように歩いているのは、一匹のイノシシだった。

「こなべ」

「ごふ~」

あたしが呼びかけると、振り返って体を擦りつけてくる。

この仔は幼稚園のペットで、なべの子供だ。本当はツバキっていうんだけど、あたしは「こなべ」って呼んでる。

「幼稚園まで一緒にいこっか?」

「ごふっ」

あたしが小さい頃に通っていた幼稚園は、ちょうど通学路の途中にある。

不思議そうな顔をしている園児たちに笑顔で挨拶して、久しぶりにあたしはこなべと並んで歩いた。

「とうちゃーく!」

「ごふごふ~」

幼稚園の前まで辿り着き、こなべと一緒にその場で一、二回足踏みして停止する。

そこであたしたちを出迎えてくれるのは、よく知っているあたしの先生。

「あら汐ちゃん」

「杏先生、おはようございまーす!」

「はい、おはよう。朝から元気ねぇ」

「そりゃあもうっ。今日は待ちに待った日ですから」

「そっか……あの小さかった汐ちゃんがもう高校生になるのか……あたしも年を取るわけだわ……」

なんだか自虐的な発言に聞こえるけど、ここで慰めるのもヘンな話だ。

「汐ちゃん発見ですっ!」

そう思って口を挟まずにいると、杏先生とは対照的な元気極まりない声と共に背後からいきなり抱きつかれた。

「ふぅちゃん……おはよ~」

「おはようございます汐ちゃん、風子に会いに来てくれましたかっ」

「いや、見ての通り、学校行くとこ」

自分の着る制服を指差してみせる。

「んーっ! 制服の汐ちゃん、かわいいですっ」

「ありがとっ」

「ほら風子、いつまでも汐ちゃんにぶら下がってないで、あんたは自分のクラスんとこ行きなさい」

「……はっ! 風子、危うく本分を忘れるところでしたっ。これが汐ちゃんマジック……恐るべし、です」

「ふぅちゃんは相変わらずだね。じゃ、ふぅちゃん、杏先生、こなべ、いってきまーす!」

「いってらっしゃいですっ」

「いってらっしゃーい! 車と、カラスと、目つきの悪い電気工には気をつけるのよ~」

「ごふごふー」

ふたりと一匹に手を振って、あたしは幼稚園を後にした。

「あなた、岡崎……岡崎汐ね」

通学路を登っていくと、脇道から声をかけられる。

振り向くとそこには、あたしと同じ制服を着た女子生徒が立っていた。

背が高い子だ。あたしはどちらかというと背が低いほうなので、自然と相手を見上げる形になる。

「そうだけど」

「久しぶりね……」

なんだかこっちを知ってるみたいな言い方だ。

「誰だっけ?」

「この私を忘れたとは言わせないわっ。緑ヶ丘中女子バスケ部キャプテン、岡崎汐!」

二つ結びにした髪が逆立つくらいの勢いで、ずびしっ!とあたしを指差す。

その姿を見て思い出した。たしか、去年の地区大会の決勝で当たった中学の子だ。でもおもしろそうだから黙っておくことにする。

「忘れた」

「忘れたとは言わせないって言ったでしょ! 光坂中女子バスケ部キャプテン、今野 叶(こんの かなえ)よ!」

「名前までは覚えてなかった」

「私の片思い、というわけね……」

「その言い方はどうなんだろ」

「まぁいいわ。同じ学校になったのなら好都合。今度こそどっちが上か、はっきりさせましょう。まずはどっちが先にレギュラーになれるか、それで勝負よ!」

「あー、ごめん。あたし、バスケ部には入らないから」

「な……ん……ですって……」

ありゃ、失言だったかな。

彼女の様子が目に見えて変わってきた。

「お、岡崎……あなたっ! 私たちを破って全国大会に優勝しておきながら……バスケ部に入らないですって?」

「うん」

「うんじゃないわよ! 何考えてんの、このおバカっ!」

ひどい言われようだ。

でも、あたしにだってこの学校でやりたいことがある。わがままだってことはわかってるけど、これだけは譲れない……あたしの望みだ。

「勝負ならいつでも受けるよ、バスケやめたわけじゃないから安心して」

「そういう問題じゃないわ。私、楽しみにしてたのよっ。あなたと一緒なら全国制覇も夢じゃない、って」

「…………」

心が、じーんと温かくなる。と同時に、なんだか悪いことをしたような……申し訳ない気持ちになる。

そうだ。数えるほどしか会ったことないけど、この子はこういう子なんだ。

試合した時も戦意はともかく敵意はまったく感じられなかった。それは彼女の美点であり、時には激しいぶつかり合いになるバスケでは欠点にも思えた。

「あたし、この学校でやりたいことがあるんだ……」

だからあたしも、正直に話した。

「それはずっと前から決めてたことで……あたしの夢なんだ」

この話をするのは、幼なじみで親友の愛ちゃん以外には初めてだ。

「それはバスケ部じゃ叶えられない夢……なのね」

「うん、残念だけど……これだけは譲れない願いだから」

今野さんは私の目をまっすぐに見て、少し寂しそうな顔をする。

「そう……わかった。でも同じ新入生として、一緒に学校生活を送る……それはあなたの夢の障害にはならないはずよ」

「今野さん……」

「せっかく同じ学校になったんだから、仲良くしましょ」

「うん、そうだねっ」

彼女の可愛らしい笑顔に、あたしも満面の笑顔で応えた。

「それで……あなた、この学校で何をしでかす気なの?」

「しでかすって……そんな大げさな」

「いいえ、緑ヶ丘中の名を全国に知らしめたのは、あなたよ。それはバスケの全国大会に限った話じゃないわ」

ずびしっ!と指差される。

「生ける伝説なのよ、あなたは!」

「異議あり!」

ずびしっ!と指差し返す。

「何か言いたいことでも?」

「なんとなく、やり返してみたかっただけです」

「面白い子ね」

いやいや、あなたも結構おもしろいから。

「……演劇部に入ろうと思うの」

「演劇?」

「演劇部がなかったら、自分で作ってでも演劇をやりたい」

「将来、女優にでもなりたいのかしら?」

「うーん、まだ将来のことまでは考えてないなぁ」

あたしはママの演劇の続きを演じたい……ただそれだけだ。

「ね、ね、今野さんも一緒にやらない? 演劇部」

「あのねぇ……私はバスケの推薦でこの学校に来たの。その意味、わかるでしょう?」

「あ、そっか……」

「私からしたら、あなたが推薦入学じゃなかったことのほうが驚きよ」

バスケ部縛りがなかったら、あたしも推薦にしてたと思う。補助金も出るし。

「わぁ……」

桜並木に彩られた坂道。

その絶景に、思わず感嘆の声が漏れる。

ついにあたしは、この場所に辿り着いた。

そう、すべてはこの坂道から始まったのだ。

パパとママがこの坂道の下で出会ってから……。

ふたりの出会いがあるからこそ、あたしは今、ここにいる。

坂道の下で立ち止まっているママにパパが声をかける……話に聞いた頃からあたしの中にあるそのイメージが、現実と重なった。

「あ……」

桜舞う坂道の下。

その、どこかで見たような風景の中に、ひとりの女の子が立っていた。

「あんなところに突っ立って……どうしたのかしら、あの子」

あたしたちと同じ新入生だろう。真新しい制服を着たその子は、長い坂道の先を見上げている。どこか儚げな印象を受ける横顔だった。

その子は、ぐっと目を瞑ってから、意を決したように一歩を踏み出す。

でも、そこで歩みは止まっていた。

そしてまた、坂道の先……高みにある校門をじっと見つめる。

何度か躊躇した後、また意を決して次の一歩を踏み出す。

「どーん!」

それに合わせて、あたしはその子の背中をかけ声とは裏腹に軽く押していた。

「……え?」

その子は困惑した様子であたしのほうを振り返る。

今野さんも突発的なあたしの行動に驚いていた。

なんだかじれったい、とかいろいろと思うことはあるけど……何よりも、この子を放っておけない。そう思った。

あたしはその子の手を引く。

「ほら、いこっ」

最初はあたしに引きずられるままに歩いていたその子も、やがて自分の足で歩き始める。

その場で固まっていた今野さんも、呆れたような笑顔で息をついてから、あたしたちと並んで歩き始めた。

あたしたち三人の周りを、たくさんの桜の花びらが光のように舞い踊っていた。

――あたしたちは登り始める。

――この長い、長い坂道を……。

――その先には、光が溢れていた。

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感想などをお題箱で伝えてくれたら嬉しいです!

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関連SS

後書き

CLANNAD10周年記念SS第29弾、汐アフターでした。

結果的に以前書いた汐SSと繋ぐような形になりました。

最後は駆け足だったので凍結しちゃったSSもありますが、CLANNAD10周年記念SSも無事にやり遂げることができました。一年間お付き合いいただき、ありがとうございました。