「おかえりなさい、みなさん。今日もお早いお帰りですね」
扉を開けると、いつものように宮沢の笑顔が迎えてくれる。
昨日と同様、地上へ戻ってすぐにオッサンはいずこかへと去っていった。自称多忙の風子も、階段を閉じるためにボタンを押すと満足して"普通に"帰っていった。
そして残ったメンバーは資料室……冒険者の酒場へと帰ってきていた。
「今日は昨日よりかなり長い間ダンジョンにいたけどな」
「そうなんですか? 今コーヒーを淹れますから、また冒険のお話を聞かせてくださいね」
宮沢が笑顔のまま席を立つ。
「ふぅ、やっぱりここに帰ってくると癒されるねぇ」
息をつきながら室内に入ってきた春原の無残な頭部を目の当たりにした宮沢の目が見開かれ、普段ののんびりした様子からは考えられない速さで春原に駆け寄った。
「すぐに保健室へ行きましょう」
「へっ? い、いや……大丈夫だから」
「そうはいきません。冒険者を癒す存在でないといけませんので」
宮沢は春原を引きずるようにして部屋から出ていく。
「あ、わたしも一緒に行きますっ」
その後を芽衣ちゃんが早足で追う。
残された俺たちは、慌ただしく退室する三人をぽかんと呆気に取られたまま見送った。
#14「再来の帰路」
芽衣ちゃんが閉めた扉の音で我に返る。
後を追ってもよかったが、あまり大人数で保健室に押しかけても仕方ない。宮沢と芽衣ちゃんに任せておけば大丈夫だろう。それに、春原だしな。
少し遅れて宮沢に続こうとした古河を二人に任せるよう言いとどめて、俺たちはここで待つことにした。
もはや指定席となりつつある真ん中の席に腰を下ろす。続いて古河も遠慮がちに椅子を引き、昨日と同じ席に腰を下ろした。
よっこいしょ、と年寄りくさい言葉を発しながら俺の向かい側に着席した杏が、三人の出ていった扉に目を向ける。
「さっきの子は? 2年だったみたいだけど」
「酒場のマスターだ」
杏は手を伸ばして俺の額に手を当てると、自分の額にも手を当てる。
「熱なんてねぇよ……」
「冗談ならつまんないわね」
「春原が言い出したことだからな。宮沢は……まぁ、ここの管理者みたいなもんだ」
「管理者? 生徒が管理してんの?」
「本人はそう言ってるが」
「ふーん。まぁ、ここはほとんど物置みたいなもんだしねぇ」
「人も寄りつかないからな。集まるにはいい場所だろ」
「授業サボるのにも使えそうね」
「委員長が授業サボるなよ……」
思えばここで初めて宮沢に会った時も、授業をサボって寝に来たんだった。この学校で授業をサボるような奴は俺と春原、それにこいつくらいのものだろう。
……いや、もうひとり思い当たった。飲食禁止の図書室で平然と弁当を広げていた奴が。
「藤林さん、委員長されてるんですね。すごいです」
俺たちの話を黙って聞いていた古河が杏に尊敬の眼差しを向ける。
「別にすごくなんてないわよ。雑務ばっかり押しつけられるし。それに、好きで委員長になったわけじゃないわ」
「推薦されたんだろ?」
「そうよ! それも三年連続よっ!」
勢いよく両手を机について席から身を乗り出す。どうやら図星だったようだ。
「そういや、2年の時も委員長やってたよな」
「今のクラスにあんたらみたいな問題児はいないけどね。椋もさぞかし頭が痛いでしょうねぇ。よりによって問題児ふたりが同じクラスなんだから」
「悪かったな……」
「でも藤林さん、推薦されるということはそれだけ信頼されているんだと思います」
「信頼、ねぇ……単に面倒事を押しつけてるだけな気もするけど。あ、そうそう。渚……だったわよね?」
「はい」
「あたしのことは杏でいいから。同じ学年に双子の妹がいるから、『藤林』って呼ばれると紛らわしいのよ」
「はい。では……杏さん、でいいですか?」
「うん。さん、じゃなくて、ちゃん、でもいいわよ」
「はい。杏ちゃん、ですね」
「似合わねぇ……」
「あァ?」
「……なんでもない」
「どうせ男と勘違いされそうな名前よっ。『あんず』とか『あん』とか読み間違えられることも多いし……ああっ、もうっ! 親がつけた名前なんだからしょうがないじゃないのっ!」
「そこまでは言ってないだろ……」
「そうです。とても素敵な名前です」
古河は胸の前で両手を合わせる。
「……へ?」
「藤、林、杏……名字も合わせて自然と関係がある綺麗な名前だと思います」
これまでも何度か思ったが、よくもまぁこんな恥ずかしいセリフを真顔で言えるものだ。
予想外の言葉に固まっていた杏だが、少し赤くなった頬を掻きながら照れ笑いを浮かべた。
「……そんなこと言われたの初めてよ。なんか照れるわね」
「言われてみれば、おまえも妹のほうも植物の名前だよな」
「そうよ。そこから名前を取ったのは間違いないわね」
「わたしの『渚』という名前も、名字の古河と繋がる名前だってお母さんが言ってました」
「へぇ……」
感心している様子の杏が不意に俺のほうを向く。
「朋也は名前の由来とかないの?」
「俺か? 知らねぇな」
自分の名前に意味があるかなんて、考えたこともなかった。
聞こうにも母親は俺が物心つく前に亡くなったし、父親は……思い出したくもなかった。
「『ともや』、なーんてどこにでもある名前だもんね。今までの人生で500人は会ってるわ」
「そんなに多くないだろ……。つーか全国のともやに謝れ」
その後もなぜか名前談義が続き、身近な人の名前の由来などを想像して楽しそうに話している杏と古河をぼんやりと眺めていた。
*
眩しいくらい夕日の赤に染まっていた室内にも陰りが見えてきた頃、がらりと扉の開く音が聞こえた。
「ただいま帰りました」
宮沢と芽衣ちゃんが並んで室内に入ってくる。
すぐに古河が振り返り、笑顔で出迎えた。
「おかえりなさい。春原さんは大丈夫でしたか」
「はい。火傷もありませんでしたし、見た目ほどひどくはないですよ」
「その見た目が問題なんすけどね……」
二人の後に続いて足取り重く入ってきた春原は、頭部の包帯が以前の三倍以上に増量し、見事にターバンと化していた。
俺は笑いを堪えながら、拝むように手を合わせる。
「ナマステ」
「言うと思ったけどインド人じゃねぇよ……」
「あっはははははっ!」
「そこっ! 人の頭指差しながら大声で笑うなっ」
「杏ちゃん、笑い過ぎです」
「だってさ~、くっくく……」
インド人な春原は杏のツボに入ったらしい。しかし……こいつは被り物が似合わねぇ男だな。
「ふぅ……」
宮沢が淹れてくれたコーヒーを飲んで一息つきながら、今回の冒険を宮沢に語る。
「今日は初めてモンスターに遭遇したんだよねっ」
「春原さん、モンスターではないです。だんご大家族です」
「あ、ああ……そうだったね」
「だんご大家族といいますと……あのだんご大家族ですか?」
「はい、これです」
宮沢の問いに、古河は懐からビラを取り出して机の上に広げてみせた。
「可愛いですね」
「はいっ、とても可愛いですっ」
「えーと……演劇部員……募集?」
笑い合う宮沢と古河をよそに杏は目を細めると、多数のだんごたちに覆われて見えなくなってしまった文字を解読して読み上げた。
「あ、これは演劇部員募集のビラでして……部員が足りないので募集してます。杏ちゃんは部活入ってますか?」
「あたし? 入ってないけど」
「演劇部に入りませんか?」
古河の誘いに、杏は胸元の校章を指差す。
「あたし、3年なんだけど。こういうのは1、2年を誘ったほうがいいわよ。3年が入っても来年には廃部になっちゃうでしょ?」
「いえ……演劇部はもう廃部になってます……」
「……は?」
「今も正式な部じゃないんだよ。古河がひとりでやってるだけだ」
「演劇部、ねぇ……」
頭部全体を白い布で覆われた春原がコーヒーをすすりながら呟く。異様な光景だった。
「春原さんは演劇に興味ありませんか?」
「いや、悪いけどぜんぜん興味ないね」
「そうですか……」
「でもさ、願いならダンジョンで叶えてもらえばいいじゃん」
「いえ。それは坂上さんが昨日も言ってましたけど、ズルだと思います」
「まぁ、ひとつしか願いが叶わないかもしれないしね。もったいないよねっ」
最初は古河の願い……演劇部の復活を叶えてやろうとしていた俺だったが、古河は自分の手で演劇部を復活させたいと望んだ。
もともと暇つぶしで冒険を始めた俺に、もう願いは必要ない。
「あのさ……」
顎に手を当てて考え込んでいた杏が、机の上に広げられたビラをトントンと人差し指で軽くつつく。
「このビラ、もう貼ったの?」
「いえ、まだですけど」
「ならよかったわ。部員募集の期間はとっくに終わってるのよ」
「それはわかってるが、別に大したことじゃないし、見逃してくれるだろ」
「甘いわね……」
ちちち、と口の前で人差し指を振ってみせる。
「今の生徒会長、頭固い奴なのよ。絶対ケチつけてくるわ」
「そうなのか? まぁ考えられない話じゃないが」
「この学校の生徒なんてそんな奴ばっかりでしょ? その大将なんてロクな奴じゃないね」
春原が吐き捨てるように言う。隣の芽衣ちゃんがそんな春原を不安そうな顔で見上げていた。
「そんなことないと思いますけど……」
芽衣ちゃんの表情を察してか、古河が控えめに口を挟む。
「生徒会全員がそうとは言わないけど、少なくとも生徒会長はねぇ……」
「よく知ってるんだな。同じクラスなのか?」
「違うわよ。委員長絡みでちょっと、ね……。どうせ今はA組でしょ?」
「A組って、ガリ勉連中が集まってるクラスだよね」
「そうそう。これがまた生まれた時から生徒会やってます、みたいな顔してるのよ」
その顔が容易に想像できた。
「来月頭には生徒会も1、2年から選ばれたメンバーに変わるんだし、それを待って掛け合ったらいいんじゃない?」
「その前に、まだ部活動に必要なものもわからないので……篠原先生に聞いてみようと思います」
「篠原っていうと……美術の篠原ね?」
「はい」
「あの人、なんか鉄仮面みたいな顔してて怖いよね……」
「今はおまえのほうが月光仮面みたいで怖いけどな」
「……ぷっ。い、今考え事してるんだから笑わせないでよっ。なるべく見ないようにしてるんだからっ」
「あんたらもしつこいですねぇっ!」
必死に笑いを堪えながら杏が顔を上げる。
「た、確か、部員と顧問が必要……だったっけ? 帰ったら椋……妹に聞いてみるわね。何か困ったことがあったら言って」
「はいっ、ありがとうございますっ」
***
後片づけをするという宮沢を残して退室した俺たちが校門を出る頃には、夕日が町の向こう側に沈みかけていた。
人通りの少ない坂道を古河たち女性陣に続いて歩く。芽衣ちゃんを中心に杏と古河が並んで、また名前談義などに花を咲かせていた。
「芽衣ちゃんは自分の名前の由来、知ってる?」
「はい、知ってますよ。おふたりと同じで、名字と関わりのある名前です」
「そういえば『めい』って、どういう字書くの?」
「芽吹くの『芽』と『ころも』で、芽衣です」
「春らしいお名前ですね」
「はい、名字は春の原っぱで春原ですから。春が来て、原っぱにはまるで衣を広げたように草木が芽吹いた……という意味だそうです」
「芽衣ちゃんのご両親って詩人ねぇ……」
「わたしはこの名前、とても気に入ってるんです」
町が一望できる坂の上。芽衣ちゃんは町の果て……夕焼けの要因が隠れつつある地平線に目を向ける。
「それに……兄の名前とも繋がってますから」
「えっ、ちょっと待ってくれ!」
三人の会話に割り込むように声をあげた俺に、三人とも後ろを振り返る。
「どうかしました?」
「こいつの名前と繋がってるのか?」
螺旋状の頭部を見ないようにして、親指で隣を指差す。
「僕の名前と繋がってちゃいけないのかよ」
「いけないだろ……」
「どうして」
「だってこいつの名前……妖怪だぜ?」
「陽平だよっ! ……って妖怪ネタこれで何度目だよ!」
冗談だとわかっているのか、芽衣ちゃんは笑顔で言葉を続ける。
「太陽の光がないと、春が来ても平原に草木は芽吹きませんから」
自分と兄……ふたりの名前の由来を紡いだ芽衣ちゃんは、どこか誇らしげに見えた。
太陽が沈んでいくのと同じように俺たちはゆっくりと坂道を下っていく。
古河にとってはこんな他愛のないおしゃべりでも嬉しいのだろう。終始、笑顔でいた。
ひとりだけ服装の違う芽衣ちゃんは他の生徒の目に留まっていたが、それ以上に俺の隣を歩く不気味なインド人のほうが印象深いようだった。
「じゃ、あたしはこっちだから」
長い坂を下りきったところで、杏が脇道に足を向けて言った。
「おまえんち、そっちだったか?」
「ちょっと寄るとこがあんのよっ。なんか文句ある?」
なぜ怒る?
……ああ、そうか。ひとつ、思い出したことがあった。
以前こいつは校則で禁止されたスクーターで登校し、人を撥ねた前科がある。あの時は危うく俺が被害者になるところだったが。
「文句はないけど人は撥ねるなよ」
「なっ!? ……くっ」
図星を突かれたからか、杏は押し黙って拳を震わせた。
やばい。これ以上つつくと藪蛇になりそうだ。
「じゃ、じゃあねっ」
「また明日です、杏ちゃん」
「さようなら」
「うん、ばいばい……ぷぷっ」
「笑うなっ!」
杏は古河と芽衣ちゃんに軽く手を振ると、最後に春原を見て笑いを堪えながら脇道に入っていった。
「ありがと、おにいちゃん。あとは自分で持つから」
杏を見送った芽衣ちゃんが、春原を振り返って手を差し出す。
「いいっての。どうせ寮までついてくるんだろ」
「うん。それに、管理人さんや隣の部屋の人にも挨拶しないと……」
「管理人はいいけど隣の部屋はやめてくれぇ!」
「なんで?」
「そ、それは……」
春原が口ごもる。言うまでもなく、隣の部屋に住んでいるのはラグビー部の連中だ。
四方を敵に囲まれた弓兵のような暮らしをしている春原にとって、周囲を取り囲む敵に挨拶などされたくはないだろう。
「とにかく隣の部屋はいいよ……」
「ええーっ。おみやげも持ってきたのに……」
「えっ、土偶っ!?」
「……おにいちゃんと同じこと言うんですね」
思わず声をあげた俺に、芽衣ちゃんは少し呆れた様子だ。
同じも何も……あれは俺だったんだが。
「じゃあ、たいまつか」
「違います。普通のお菓子です」
「なんだ……」
「なんでそんなに残念そうなんですか……」
*
「それでは、わたしはこれで……」
男子寮の前まで来たところで、古河が後ろを歩く俺たちを振り返る。
「あ、よかったら寄ってってよ。お礼にお茶でも出すからさ」
「仕方ねぇな。そこまで言うなら寄っていってやろう」
「おまえじゃねぇよ!」
「わたしも、渚さんともっとお話したいなぁ」
古河の隣を歩いていた芽衣ちゃんも兄に同意する。
「でも、男子寮に女子のわたしが入ってもいいんでしょうか。芽衣ちゃんと違って家族でもないですし……」
「別に気にすることないって。結構女子も入ってきてるからね」
「ま、汚ねぇ馬小屋だけど、ゆっくりしていってくれ」
「おまえが言うなっ!」
「お馬さんがいるんですか」
「そんなわけないっす……」
「それくらい汚いってことですよね……はぁ」
部屋の様子を想像してか、芽衣ちゃんが深いため息をついた。
玄関を抜けて、男子寮に足を踏み入れる。
「まずは管理人さんに挨拶しようかな」
自分の荷物を春原から受け取った芽衣ちゃんは、バッグから梱包された箱を取り出した。たいまつではなく、普通のお菓子らしい。
「じゃあもう一回、美佐枝さんを冒険に誘おうかなっ」
「やめとけ」
先頭を行く春原は部屋の前に着くと、ノックしながら大声で中に呼びかける。
「美佐枝さーん」
『はぁーい』
ドアの向こうからくぐもった声がする。
しばらくするとドアが開かれ、エプロンをつけた美佐枝さんが姿を見せた。
「なぁに? うわっ、誰よあんたっ!?」
インド人と化した春原を見て、美佐枝さんが一歩後ずさる。
「俺の召使いのナンディ斉藤だ」
「適当なこと言うなっ! それに召使いってなんだよ!」
「あら、岡崎じゃない。……ということは、あんた春原ね。どうしたのよ? その頭」
隣に立つ俺の姿を認めただけで、美佐枝さんは目の前にいる謎のインド人が春原だとわかったようだ。俺と春原がセットで扱われているみたいで嫌だった。
「これはまぁ、いろいろあって……それよりも美佐枝さんっ」
「なによ」
「冒険しようぜっ!」
「しない。じゃあね」
ドアを閉められる。やめとけっつったのに、聞かねぇ奴だな。
「……」
「おにいちゃんはちょっと黙ってて」
うなだれる兄を押しのけて、今度は芽衣ちゃんがドアをノックする。
「管理人さーん」
『はいはい……ってどこ行くのっ、あんた!?』
美佐枝さんのくぐもった声と共に何やら音がして、ドアが勢いよく開かれる。
そこから予想もしていなかった驚愕の光景が飛び出してきた。
「ヘイ! 帰ってきたのかい!」