「ヘイ! 帰ってきたのかい!」
聞き覚えのあるそのセリフと、くぐもった声。
だが目の前に現れたのは、水上バイクに跨って周囲にビッグウェイブを巻き起こしていたあの男……ではなかった。
「お、おまえっ、まさか……ジェット斉藤かっ?」
予想もしていなかった場所から突然現れた驚愕の光景に、俺は思わず訊き返してしまう。
「いや、今の俺はもうジェット斉藤ではない……」
美佐枝さんの部屋から文字通り飛び出してきたその男は、プロテクターらしきもので全身を覆っていて、奇妙な乗り物(?)に乗っている。顔もフルフェイスに覆われていて見えないが、そこから聞こえてくるのはやはりあのジェット男の声だった。
「ヨーさんの恩に報いるため……そして自分自身のために、俺は再び跳躍する……!」
「斉藤……おまえ……」
ヨーさんと呼ばれた妖怪の春原が、いつになく真剣な様子で呟く。
目の前のこいつがあの斉藤であることは間違いないようだ。なんでこんなところにいるのかはわからないが、ただ俺たちを驚かすためだけに現れたわけではなさそうだ。
斉藤は奇妙な乗り物に乗ったまま大きくジャンプすると、まるで少年マンガの主人公が危機に陥った時にパワーアップして帰ってきた仲間のように空中で名乗りをあげた。
「俺の名は……ホップ斉藤!」
#15「水竜飛翔」
ぴっこ、ぴっこ、ぴっこ。
まるで謎の地球外毛玉生物が発するかのような緊張感を削ぐ奇怪な音。
音の発生源は、斉藤らしき男の乗っている……あー、なんだっけか? 喉まで出かかってるのに名前が思い出せない。あれだ、子供の頃に流行った跳ねて遊ぶおもちゃだ。
「斉藤、それさ……ホッピングだろ……」
春原の言葉で思い出す。そうそうホッピングだよ、それ。すっきりした。
「ああ。これが俺の新しい愛機……新星(ノヴァ)・プリティ・ドッグ号だ!」
ぴっこ、ぴっこ、ぴっこ。
ホップ斉藤と名乗ったジェット斉藤が、俺たちの前をもう一度小刻みに跳ねてみせる。この奇怪音が犬(?)の鳴き声に聞こえると言われれば、聞こえるような気がしないでもないが……。
しかし、俺の知っているホッピングはこんなヘンな音を出したりしなかった。もっとバネみたいな金属音だったはずだ。なんだか気が抜けるな。
「よくわかりませんけど、斉藤さんが帰ってきたんでしょうか」
「あ、ああ……。そうみたいだが……」
「この人もおにいちゃんのお友達?」
「まぁね」
俺たちが話している間も、斉藤は落ち着きなくぴこぴこと左右に繰り返し飛び跳ねていたが……
「くっ……」
「お、おい、斉藤っ」
突然、斉藤の上体がぐらりと傾き、バランスを崩して片足を床につけてしまう。
「すまねぇ、ヨーさん。ホップ斉藤を名乗るには早かったようだ。今はまだ、あんたに合わせる顔がねぇ……」
斉藤の手が震えていた。床につけた片足も、わずかに震えているように見える。
「だがいつか必ず克服してみせる……! それまでは……」
春原にそう告げた斉藤は再度ホッピングに飛び乗り、俺たちに背を向けて勢いよく跳躍した。
ぴっこ、ぴっこ、ぴこっ、ぴこっ……
……ばたんっ。
あ、こけた。
「く……」
苦悶の声を発した斉藤はホッピングを支え持って再び立ち上がると、震えながらも今一度それに乗り、不格好に跳ねながら去っていった。
「なんだありゃ?」
「斉藤さん、一体どうしたんでしょう」
「斉藤……」
わけもわからず斉藤を見送った俺たちの中で、春原だけが何か事情を知っているのか、複雑な表情で斉藤が去っていった入り口のほうを見つめている。
「なぁに? あんたたち、あの子と知り合いなの?」
開けっ放しにされたままだったドアから、いつの間にか美佐枝さんが顔を出していた。
「知り合いっちゃ、知り合いだな」
「はい、お友達です。わたしは昨日会ったばかりですけど」
「美佐枝さん……斉藤の奴、何かあったのか?」
先ほどから似合わないシリアスモードを続けている春原が訊く。
「ふぅん……。ま、立ち話もなんだから上がんなさいな」
その普段からは考えられない真剣な表情が伝わったようで、美佐枝さんは俺たちを部屋に招き入れてくれた。
毎日のように男子寮に入り浸っている俺だが、美佐枝さんの部屋に入るのは初めてだ。
言われた場所へ腰を下ろしてからも、どうも落ち着かなくて部屋の中を見回してしまう。
ベッドには折り畳まれた布団があって、その上で猫が丸くなっていた。背中が特徴のある縞模様で、綺麗な毛並みをしている。美佐枝さんの飼い猫だろうか。
「あんまり人の部屋をじろじろ見ないでくれる?」
「い、いや、ベッドを見てたわけじゃないよっ」
ポットと向かい合ったまま振り向きもしていない美佐枝さんに行動を読まれた春原が、芽衣ちゃんに睨まれて弁解する。シリアスモード終了。
しかし無意識のうちに春原と同じ行動を取っていた自分が恥ずかしい。テーブルの木目の数でも数えとこう。
「……で、そちらのおふたりさんは?」
やがて人数分のコーヒーを淹れた美佐枝さんが、テーブルにカップを置きながら訊いてくる。
「あ、申し遅れました。わたし、ここにいる春原陽平の妹で芽衣といいます。兄がいつもお世話になっております」
「えっ?」
「これ、つまらないものですがどうぞ」
いち早く芽衣ちゃんが挨拶をして、段取りよく土産物を手渡す。
「あ、あぁ……これはどうもご丁寧に……。ここの寮母やってる相楽美佐枝です」
それに釣られて美佐枝さんも似合わない口調で挨拶を返した後、芽衣ちゃんの顔をまじまじと見つめた。
「本当に春原の妹さん……よね?」
当然ながら、誰もが疑う。
「はぁ……。管理人さんにもご迷惑をおかけしているようで……すみません」
美佐枝さんの反応から普段の様子が想像できたようで、芽衣ちゃんはため息をついた。
「こりゃ驚いたわ……。電話で何度か話したことあるけど、礼儀正しくてしっかりした可愛い妹さんじゃないの~。きっと兄を反面教師にしてきたんでしょうねぇ」
「まぁね!」
「そこは否定しろよ……」
「なんでだよ。反面教師って四字熟語っぽくて格好いいじゃん」
「お、おにいちゃん……」
確かに春原は反面教師としてはこれ以上ない逸材だろう。だがまさか本人が認めるとは思いもしなかった。現国が赤点なのは知ってたが、まさかここまでとは……。
芽衣ちゃんもショックで頭に手を当ててよろめいている。
「あの……春原さん、反面教師は格好良くないです。悪いお手本のことです」
真っ正直に古河が指摘した! ものすごい天然っぷりに感動すら覚える。
「ええええぇぇーっ!?」
過酷な真実をそのまま突きつけられ、春原はしょんぼりとうなだれた。
言ってしまってから気づいたのか、あ……と古河が小さく声をあげる。
「い、いえっ、春原さんにもいいところ、いっぱいあります」
「取ってつけたようなフォロー、ありがとうございます……」
「フォローじゃないですっ。本当のことです」
春原を必死で慰める古河に、美佐枝さんの目が向く。
「あなたは? うちの学校の子でしょ?」
「……え? あ、すみません。はじめまして、古河渚です。岡崎さんと春原さんにはお世話になってます」
「お世話!? こいつらに? お世話してやってるんじゃなくて?」
「はい」
「それはない」
杏にも同じような反応をされたが、まったく反論できないところが……
……? 悲しいのだろうか、俺は。
「そんなことよりさ、そろそろ本題に入っていい?」
「なによ?」
「斉藤の奴、美佐枝さんに何か用でもあったの?」
「あぁ、そうそう。ショックが大きくて忘れるとこだったわ」
「ショックとか言わないでくれますかねぇ……」
美佐枝さんはカップに軽く口をつけてから言葉を続けた。
「何か悩みがあったみたいよ。詳しい話を聞く前にあんたらが来て、飛び出していっちゃったけどね」
「俺たちに悩みを聞かれたくなかったのかもな。でもなんで美佐枝さんとこに?」
「あいつもここに住んでるからね」
「寮生であたしのところに相談に来る子も多いのよ。そりゃ若いんだから悩みのひとつやふたつ、あるだろうけどさ。つまらない相談も多くてねぇ……」
そう言って、はぁ……とため息をつく。
「へぇ……それは知らなかったよ。じゃあ僕も今度相談に行っていい?」
「あんたが一番つまらない相談をしてくれそうな予感がするわ……」
そう言ってまたため息をつきながらも、来るな、とは言わないところがこの人らしかった。
「まぁあの子はさっきも真剣な様子だったし、まともな悩みみたいね」
「ああ見えて斉藤は真面目だからね。昔は僕みたいにストリートファイトで夜の町を彷徨ってたらしいけど」
春原が言っても説得力なかったが、それが斉藤だと結構説得力があるな。
「それで……斉藤さんは何を悩んでいたんでしょうか」
「さっき本人が言ってたでしょ? あの子、もう一度ホッピングに乗ろうとしてるんじゃないかしら」
「もう一度? 前に乗ってたことがあるのか?」
「そう、ホッピングを使った……なんか難しい名前の競技に出るほどの腕前だったらしいんだけどね。腰を痛めて続けられなくなっちゃったらしいのよ」
腰を痛めて……そうか……。
春原が斉藤の面倒を見ていた理由がはっきりした。
あいつは、俺や春原と同じだった。
同じ……夢を諦めた人間だったのだ。
「僕もその話は斉藤から聞いてたけどさ、あいつの腰はもう治ってるんだよね」
「まぁ、腰を痛めてるようには見えなかったな」
腰を痛めたままで、あんな大型のバイクには乗れないだろう。
だとすれば、考えられることはひとつだった。俺はさっき見た斉藤の様子を思い出す。
「やっぱトラウマになってるんだろうね……」
「さっきの様子を見た限りじゃ、たぶんそうだろうな」
「それでも斉藤さんは、春原さんのためにもう一度がんばろうって思ってるんです。きっと」
斉藤の境遇に感銘を受けたからか、古河は涙ぐみながら言った。
「ちっ、あいつひとり格好つけやがってよ……」
俺も春原も、諦めた夢を振り返ることなく、こんな人間になってしまった。
だが斉藤は今、春原のために過去と向き合おうとしていた。諦めた夢をもう一度取り戻そうと。
「……」
なんだろう、この気持ちは。
俺は斉藤が……うらやましいのだろうか。
いつか俺も、他の誰かのために一度捨てた夢を取り戻そうと思うようなことがあるのだろうか……?
***
美佐枝さんの部屋から退室し、馬小屋という名の春原の部屋に入る。
緊張した様子でドアの前に立ち止まっていた芽衣ちゃんが、ぐっと拳に力を入れて覚悟を決めたのか、思いきりよく一歩を踏み出した。
そして少しの沈黙。
「あぁぁ……」
またしても芽衣ちゃんは頭に手を当ててよろめいた。
「俺は見慣れてるし、これくらいのほうが落ち着くけどな」
「お、男の人の部屋っぽくていいと思いますっ」
「だよねっ」
後に続いて入ってきた古河の苦しいフォローも、芽衣ちゃんのよろめきを回復させるには至らないようだった。
そのまましばらく頭を抱えていたが、いきなりがばりと顔を上げて春原に詰め寄る。
「もうっ、掃除くらいマメにしないとダメだよ。ほら、窓開けて」
「えぇっ、後でするよ。めんどくさいじゃん」
春原は脱ぎ捨てた衣服が散乱したベッドに腰を下ろして、近くにあった雑誌を広げる。
「そうやって後回しにしてるからダメなんだってば。わたしも手伝うから、ほらっ」
「わかったわかった。明日、自分でするからさ」
「ふぅん……わたしが手伝うとまずいことでもあるの?」
「そ、そんなもんねぇよ」
「そりゃ、エロ本のひとつやふたつや三つや四つや五つや六つや七つや八つや九つ……」
「どこまで数えていくんだよっ!」
「それどころか中学の時なんて、自作のポエムノートを……」
「ぐわーーっ! 言うなぁっ!」
雑誌を放り出しながら、大声をあげて芽衣ちゃんの口を塞ぐ。
「わかったよっ! 今片づけりゃいいんだろっ」
春原が渋々立ち上がる。
成り行きで俺と古河も片づけを手伝うことになった。
「岡崎さんと渚さんにまで手伝わせてしまって……すみません」
「いえ、気にしないでください」
「俺も別にいいよ。大騒ぎしながら片づけしようぜ!」
「何が狙いなのか丸わかりなんすけど……」
「ああーっ!」
しばらくの間、黙々と片づけを続けていたが、不意に芽衣ちゃんが驚いたような声をあげる。
「おまえね……あんまり大声出すなよ」
「お、おにいちゃん……これって……」
何か見つけたらしい芽衣ちゃんが布団を畳んでいた手を止めて、一点をじっと見つめている。
この部屋からは何が出てきても不思議じゃない。ロープや方位磁石、それにたいまつがあるくらいだからな。
「なんだよ……」
「死体でも見つけたか」
「こえぇよっ」
春原と一緒に後ろから覗き込む。
芽衣ちゃんが拾い上げたのは、小さな紙切れだった。
「こ、これっ!」
ぶんっ!と空気を切る勢いで兄のほうを振り返ると、興奮した様子で手に持った紙片を突きつける。そこには、見覚えのある名前が記されていた。
「ああ、それね。芳野さんにもらった名刺だよ。そういや、そっちに送るって言ったんだったな。すっかり忘れてた」
「ほ、本物なのっ!?」
「目の前でギター弾いてくれたし、間違いないね。なっ? 岡崎」
「ああ」
芽衣ちゃんはこれ以上ないくらいに目を輝かせて名刺を見つめている。
「すごい……本当に本物なんだ……」
「それ、やるよ。もともとおまえに送るつもりだったし」
「ほんとっ!? すごく嬉しいっ!」
「その代わり、おまえが作った芳野さんのベスト、またくれよ。岡崎がダメにしちゃったんだよね、あれ」
「うんっ、いいよ!」
以前に本人は否定していたが、やっぱりシスコンだな。
まぁ芽衣ちゃんみたいな妹なら、可愛がってしまうその気持ちはわからないでもない。
「芳野祐介さん、ですか。聞いたことがある名前です」
「渚さんもぜひ聴いてみてくださいっ! いい曲ばかりですからっ」
雑誌をまとめながら名刺に書かれた名前を読み取った古河に向けて、芽衣ちゃんは熱意が込められた押しの強い口調でそう薦める。
本当に芳野祐介の大ファンなんだな。こんなに熱心に話す芽衣ちゃんを初めて見た。
「この町にいるんだから、本人に会っていったらいいんじゃねぇの?」
「お、それいいね。もっとうまくなったらまた聞かせにこい、って言ってくれたんだよね。僕のギター、また聴いてくれるってさ」
「おにいちゃんがギター!? 嘘でしょ?」
「馬鹿にすんなよ。芳野さん直伝の華麗なスケラッチ、見せてやろうか?」
「でもおまえ、あの後すぐに飽きてやめちまっただろ。あと、スケラッチじゃなくてスクラッチな」
「……あれ? そういやギター、どこにやったっけ?」
「俺が知るかよ……」
「わたしが片づけた場所にはギターなんてなかったよ」
「わたしも見ませんでした」
「じゃあついでに探そうっと」
ギターは脱ぎ捨てられた衣服の一番下に埋もれていた。春原のスケラッチとやらを見て、芽衣ちゃんが言葉を失ったのは言うまでもない。古河は純粋に褒めていたが。
その後も散らばった雑誌を整理し、大量の空き缶をゴミ袋に詰め、溜まりに溜まった洗濯物を風呂場に設置された洗濯機まで持っていき、エトセトラエトセトラ……。足の踏み場もなかった馬小屋は見事に片づいた。
四人で向かい合って万年コタツに腰を下ろし、芽衣ちゃんに淹れてもらったお茶をすする。
「なんかさ……片づける前より狭くなってない?」
「そりゃそうだろ。つーか、よくこんなに溜め込んでたな……」
確かに見違えるほど部屋は綺麗になったが、その代わりにすごい数のゴミ袋が部屋の半分を占領していた。
背後に置いてあるゴミ袋に軽くもたれかかってみたが、ベコボコして痛かったのでやめた。
「あはは……燃えるゴミは片づいたけど、燃えないゴミはこんなにたくさん置ける場所がなくて……回収日まで出せないみたいです」
大きめの湯飲みをコタツの上に置きながら、芽衣ちゃんが苦笑いを浮かべる。しっかり者の芽衣ちゃんでも、さすがに回収日までは計算に入れていなかったらしい。
「空き缶やペットボトルは来週の火曜回収だって。それと……ちゃんと分別してる? 分別しないで適当に置いてく人が多い、って美佐枝さんがため息ついてたよ」
「ちぇっ、めんどくせぇの」
ベッドにもたれかかりながらぼやく春原をよそに、芽衣ちゃんが部屋を見渡す。
「あーあ、でもこれじゃあお布団敷けないなぁ」
「っておまえっ、ここに泊まる気だったのかよっ」
「だって今からじゃ宿も探せないし。それに、学校まで行ってたからこんな時間になっちゃったんだよ」
「ぐ……それはそうなんだけどさ……」
「でもまぁ、学校に行ったおかげで渚さんや杏さんたちと知り合いになれたからよかったんだけどね」
「はい、わたしも芽衣ちゃんとお話できて楽しかったです」
あっ、と小さく声をあげて、古河がひとつの提案を口にする。
「芽衣ちゃん、もしよろしければ、わたしの家に泊まりますか?」
「えっ、いいんですかっ?」
「はい、大歓迎です」
「ありがとうございます! それじゃあ、お言葉に甘えようかな」
「そりゃ僕も渚ちゃんさえよければ、そうしてくれるとありがたいけどさ……親のほうは大丈夫なの?」
「はいっ、そのことについては自信あります。大丈夫です」
*
こうして芽衣ちゃんの宿が確保され、俺と春原も古河の家までついていくことになった。
すっかり日が暮れて暗くなった道を、街灯の光が照らしている。
春原は一応、古河の親御さんに挨拶するようだが、俺は特に用がない。こんな無粋な男が女の子の家まで押しかけていくのはどうかと思ったが、古河や芽衣ちゃんにまで強く誘われては断りきれなかった。
最近はひとりでいることが少なくなってきている。だがそれは決して悪い気分ではなかった。
「そういや、渚ちゃんの家って旅館でもしてるの?」
「いえ、うちはパン屋をしてます」
「へぇ、そうなんですか。いいなぁ、パン屋さん。自営業って憧れちゃいます」
「パン屋の前を通ったらさ、すげぇいい匂いするじゃん」
「ああ、うまそうだよな」
「やべ、想像したら腹減ってきたよ」
「……」
少しの沈黙の後……
「はいっ、とてもおいしいと思いますっ」
やけに力強く古河はそう答えた。
古河が沈黙した本当の理由を俺たちはまだ知らない。そして俺は、今まで聞いてきた情報から導き出される真実に気づいていなかった。