何度目かの三叉路。
その道も曲がることなく、ずっとまっすぐに歩き続けた先。
視界が開けた場所に、小さな公園が見えた。
「この公園の正面にあるパン屋がわたしのうちです」
公園を迂回するように沿って歩く。公園内には街灯がないのか、薄暗く人の気配もない。
その向こう側、まさしく公園の目の前に『古河パン』と書かれた看板が見えた。まだ営業中なのか店内は明るく、公園の中まで明かりが届いている。
「どうぞ上がってください」
古河がガラス戸を引いて中に入る。
こういう家では普通、裏手に玄関があるはずだが……店のほうから入ってもいいのだろうか。
一瞬ためらったが、古河の自然な様子にならって俺たちも店内に足を踏み入れた。
#16「an Clann as Dream」
「ただいまです」
店の中に入った途端、パン屋特有のいい匂いが鼻腔をくすぐる。まだ少し肌寒かった外に比べて中は暖かい。
「おかえりなさい」
のれんをくぐって店の奥から顔を見せた女の人が古河を笑顔で出迎える。古河の姉だろうか。
どっかの管理人のようなエプロンをしたその人は、パンが載せられたトレイを持っていた。少なくともこの店の関係者なのは間違いないようだ。
「あら、お客さんですか?」
「はいっ。あの、お父さんは……」
「パンのお裾分けに行ってます。すぐ戻ってくると思いますよ」
「それではここで待ちましょう」
そう古河が提案する。
古河の父親……。俺は昨日今日と一緒にダンジョンへ行ったオッサンのことを思い出していた。
『おまえも黙っていてくれ。ばれたら渚も悲しむだろうからな……』
あの人は確かにそう言った。
さっき古河が言ったこれから会う父親は、きっと古河の本当の父親ではないのだろう。
「ゆっくりしていってくださいね。片づけが終わったら何か飲み物でも入れますので」
「いえいえ、どうぞお気遣いなく」
芽衣ちゃんの言葉を背に受けながら、古河の姉は笑顔のままで店の奥に戻っていった。
改めて店内を見渡す。
閉店が近いからか、売り場にパンはほとんど残っていなかった。
その中で、隅の一角だけが目に見えてたくさん残されている。少し気になった。
「あら? その頭はどうしたんですか?」
空のトレイを運び終えて戻ってきた古河姉が、春原の頭部にぴったりフィットした螺旋状の包帯に気づいて言った。
俺は目の前のトレイに残っていたカレーパンを春原の手に持たせる。
「実はこういうことなんです」
「どういうことだよ!?」
「もしかしてインドの方ですか?」
「違うッス!」
「お母さん、違います。春原さんが頭に包帯を巻いているのは、怪我してるからです」
「そうだったんですか……大丈夫ですか?」
「いや、これくらいかすり傷っすよ」
ちょっと待て。
今、古河の口から衝撃の事実が飛び出さなかったか。
「渚さんのお母さん……ですか?」
「はい、渚の母の早苗です。よろしくお願いしますね」
「ええぇっ」
俺と春原、それに芽衣ちゃんが同時に声をあげた。
「とてもお若く見えますねっ」
「ありがとうございます」
古河母が屈託のない笑顔で礼を言う。
「渚ちゃんも可愛いけどさ、お母さんもすげぇ可愛い人だよね。町で会ってたらナンパしてたよ」
春原が小声で耳打ちしてくる。
芽衣ちゃんや春原の言う通り、古河くらいの年の子供がいるようにはとても見えない。高校生だと言っても通じるんじゃないか?
「お母さんは美人だしさ、パンもうまそうだよねっ」
「ありがとうございますっ」
やっぱりパンを褒められたほうが嬉しいようで、古河母……と呼ぶのはやっぱり違和感があるな。早苗さんは満面に広がった笑顔で隅の一角からトレイを持ってくる。
「これ、今週の新作なんですけど、食べてみてもらえますかっ」
「え」
「ちょうど腹減ってたんすよ。じゃあ遠慮なく、いっただきまーす」
「あっ……」
春原は差し出されたトレイからメロンパン(?)をひとつ掴み取ると、何か言いかけた古河の言葉も聞かずに大口を開けてそのパンにかぶりつく。
ガギン!
すごい音がした。
「噛めないんすけど……」
「名付けて……カチカチパンですっ」
そのまんまだった。
「でも中身はふわふわですよっ」
どれだけふわふわでも、その中身に辿り着けなければ意味がない。
「……」
「ダメでしょうか……」
沈黙する春原を見て不安になったのか、早苗さんは恐る恐るそう訊いた。
「いや、ダメっつーか……」
「やっぱり地球パンのほうがよかったでしょうか」
「ネーミングの問題じゃないっす……」
凍ったバナナで釘を打つシーンがとっさに思い浮かぶ。
どうやらわざとではないようだが……春原も困惑していた。
「とりあえず、あんまり硬くないのでお願いしたいっす」
「……わかりました」
春原の反応にしょんぼりとうなだれていた早苗さんだったが、両手の拳をぐっと握って立ち上がる。
「では、とっておきの秘密兵器を……」
本当に兵器なんじゃないだろうか。
しばらくすると、早苗さんがトレイを持って帰ってくる。
載っているのはまたしてもメロンパンのようだが……
……燃えていた。物理的に。
「名付けて……太陽パンですっ!」
その名の通りサンライズだった。そういえばメロンパンとサンライズの違いが俺にはよくわからない。
しかし、明らかに燃えているのになんで焦げないんだ? 不可思議なパンではある。
「今度はちゃんと噛めそうだぞ」
「噛む以前の問題だと思うんすけど……。それに今日は火で痛い目見たから遠慮しときます」
「おまえ、せっかく今インド人なんだからさ、あのパン食って火ぃ吹いてみせてくれよ」
「なんでインド人だからって火を吹かなきゃいけないんだよっ! つーかそもそもインド人じゃねぇよ!」
「……ダメでしょうか……」
俺たちのやり取りを見て、早苗さんはまたしょんぼりとうなだれてしまった。
慌てて春原がフォローする。
「い、いやっ、ダメじゃないっすよっ」
「えっ? それじゃあ……」
不意にがらがらと音がしてガラス戸が開く。
「相変わらず磯貝さんはハードだぜ……」
何やら呟きながら、長身の男が店に入ってきた。
「おぅ、客か。らっしゃいっ! ……って我が娘と……なんだ、てめぇらか」
「ただいまです、お父さん。岡崎さんたちのこと知ってるんですか?」
「あ、いや……」
カエルのエプロンをつけ、タバコをくわえたその男は、今日一緒にダンジョンから帰還した後、いずこかへと去っていったあのオッサンだった。
なんでオッサンがここにいるんだ? 古河に父親と名乗れない事情があるはずなのに……。
春原と芽衣ちゃんも意外な再会に驚いている様子だった。
「おにいちゃん、この人……」
「アッキーさん……っすよね?」
「い、いや、違うぞ。俺様は秋生だ。秋生様と呼べ」
「へっ?」
明らかに態度がおかしい。
つーかそれ以前にパン屋の中でタバコをくわえてるのはおかしいだろ。
……。
そこで俺は思い出した。初めて古河の笑顔を見た日……その笑顔から発せられた言葉を。
『うちのお父さんはすごくタバコ吸うんです』
『お父さんの部屋、入れないです。タバコ臭くて』
『服とかにもたくさん匂いついてて、すぐ洗わないといけないし』
『大変なんです……えへへ』
あの時、古河を手伝わなかったことは、俺の中に大きな迷いを生み出した。
だが家族だけは古河に優しいと知って安心したことも確かだ。
それにオッサンは初めて会った時、ウナギパンとかわけがわからないパンの名前を口走っていたし、杏はオッサンを見て「パン屋のおっちゃん」と言った。
だんだん状況がわかってきたような気がするが、どうしても理解できないところがあって混乱する。頭の中で情報をパズルのように組み合わせようとするより、本人に聞いたほうが早そうだ。
「あのさ、古河」
「はい、なんでしょう」
「このオッサン、おまえの父親だよな?」
「はい、そうですけど。お父さんがどうかしましたか」
「……」
口をあんぐりと開けたまま、春原と顔を見合わせる。
とりあえず頬をつねってみた。
「って、なんで僕のほっぺをつねるんだよっ」
「いや、もうぜんぶ夢なんじゃないかと思って」
「だったら自分のをつねれよ!」
本人に聞いたらますます混乱してきた。
「渚さんのお父さんだったんですね……」
「みなさん、お父さんのこと知ってたんですか」
「いや、今日学校で会っただろ。おまえも」
「えっ?」
「こら小僧っ、ちょっと来いっ」
オッサンにすごい力で引きずられて店の外に出る。
「てめぇ……昨日も言っただろ。ばれたら渚も悲しむから黙ってろって」
「ばれたらも何も、もうばれてるだろ」
「ばれてねぇよ。気をつけてるからな」
意味がわからない。
少なくとも、何か家庭の事情があるようには見えなかった。
「詳しく事情を話せ」
「なんでてめぇなんぞに話さなきゃいけないんだよ」
俺はガラス戸を開けて、店内に顔だけを覗き込ませる。
「おーい古河っ、本当のことを教えてやるぞ」
「はい?」
「ぐあ……待て、てめぇっ」
またしてもすごい力で店の外に引きずり出され、ガラス戸を閉められる。
「仕方ねぇな……話してやるから渚には黙ってろ」
「ああ」
「話すと長くなる。複雑な話だからな」
「ああ、わかった」
「俺がなんで変装してたかというとな……」
「変装? グラサンかけてただけだろ」
「馬鹿、昔っから変装っつったらグラサンって相場が決まってんだよ」
「そうっすか」
いちいち反論する気にもならない。
「あれは俺が秋生でなくアッキーとなって、渚や早苗に俺であることがばれないためだ」
「いや、バレバレだろ」
「まぁ渚はああ見えて鋭いから、声色を変えなきゃばれるところだったがな」
この人はアホだ。
というか、まさか古河はこの人のグラサンをかけただけの変装に気づかなかったんじゃ……。
「なんで正体を隠す必要があんだよ」
「馬鹿野郎っ。本来俺は昼からも店番なんだぞ!」
仕事しろ。
「それをおまえ、ダンジョンで冒険してたとかゾリオンしてたとか……挙句、負けた奴には罰ゲームとして早苗のパンを売りつけてたとか……」
早苗のパン……たぶんさっきのヘンなパンのことだろう。そんなことしてたのか、この人。
「んなことがばれたら早苗や渚に怒られるじゃねぇかーーーーっ!」
どーでもいい理由だった。
しかも長くないし、複雑でもなかった。
「それじゃ、古河はやっぱり……」
「あぁ? 仕方ねぇよ。てめぇも見たろ、あの売れ残りの山を。はっきり言って早苗のパンはぜんぜん売れねぇんだよっ!」
はっきり言い過ぎだった。しかもそんなことは誰も訊いてない。
さらに最悪のタイミングで後ろのガラス戸が開かれていた。
「後ろに立ってるんだけど」
「何がだよ」
「早苗さん」
「なんだと!?」
「わたしのパンは……わたしのパンはっ……」
オッサンの酷い発言を聞いてしまい、早苗さんはみるみる涙ぐみ始める。
「古河パンのお荷物だったんですねーーっ……!」
だっ!と走り去っていった。
「早苗っ! く、くそっ……」
オッサンは店内からあの硬いパンをトレイごと持ってくると、それを口に詰め込む。
「俺は大好きだーーっ!」
ベキバキとすごい音を立ててパンを噛み砕くと、叫びながら早苗さんの後を追っていった。
その様子を呆然と見送る。
……。
ふたりともなかなか帰ってこないので、とりあえず店の中に戻ることにした。
「……」
中に入った途端、春原の真っ赤な顔が俺を出迎える。その傍らには、トレイの上で炎上しているパンがあった。
「ちっ、見逃したかっ」
「本当に火が出るかと思ったよっ! シャレになってねぇっての!」
ぜひ見てみたかった。
「お父さんとお話ですか」
「ああ。どっか行っちまったけどな」
「岡崎さん、もうお父さんと仲良くなってます」
なぜか嬉しそうに古河が笑う。
「まぁな」
そりゃ初対面じゃないからな。
とりあえずオッサンがアホだということはわかった。あとはだいたい想像がつくんだが……それでも俺は確認せずにはいられなかった。
「あのさ、古河」
「はい」
「グラサンかけたアッキーとかいうオッサンだけどさ……」
「ぐらさん?」
「ああ、サングラスだよ」
「あっ、はい。今日も一緒にだんじょんに行きました」
「あのオッサンのこと、何か知ってるか?」
「わたしに訊かれましても……わからないです」
「……」
口をあんぐりと開けたまま、春原と顔を見合わせる。
とりあえず叩いてみた。
「って、なんで僕を殴るんだよっ!」
「いや、あまりにショックが大きかったからさ」
「そんな理由でぽんぽん叩かんでください」
確認するまで半信半疑だったが……これでぜんぶはっきりした。オッサンはアホな理由で古河に正体を隠し、古河はグラサンをかけたオッサンが父親だとわからなかったのだ。
勝手な推測でふたりに気を遣っていた自分を思い返して脱力する。
「あのさ、古河……」
「はい、なんでしょう」
「アホな子だろ、おまえ」
「はい?」
「てめぇっ! いきなり人の娘をアホ呼ばわりするとはいい度胸じゃねぇか……。ここから生きて帰れると思うなよ」
乱暴に戸が開かれ、息の荒いオッサンが戻ってきた。その後ろには早苗さんもいる。
「ダメですよ、秋生さん。渚のお友達なんですから」
「ちっ、早苗がそう言うんなら仕方ねぇ。命拾いしたな、小僧」
さっそく脱線してしまったが、ともかくこれで古河の家族も揃ったようだ。店内に六人もの人数が入るとさすがに窮屈だった。
「で、なんだおまえら。パンを買いに来たのか」
「違う」
「遠慮するな。今ならおまけで早苗のパンをトレイごとつけてやろう。悶絶大サービスだぜ」
「こらこらっ、あんたそんなこと言ったらまた……」
「わたしのパンは……わたしのパンはっ……」
案の定、オッサンの後ろで早苗さんが涙ぐんでいた。
「やべ……」
「古河パンのおまけだったんですねーーーーっ!」
だっ!と店の外まで走り去っていく。
「さ、早苗っ! くそっ……」
オッサンはいまだにトレイの上で燃え盛っているパンを両手でぜんぶ掴み取る。熱くないんだろうか。
そしてそれを躊躇なく口に詰め込む。熱くないんだろうか。
「俺は大好きだーーーーっ!」
口から火を吹くように叫びながら、オッサンも店を飛び出していった。
*
「なぁ古河、話があるんだろ」
「あ、そうでしたっ」
その後も(主にオッサンのせいで)話が逸れまくったが、俺が古河に話を促してようやく本題に入ることができた。
「あの、こちら、岡崎さんと春原さん、春原さんの妹さんの芽衣ちゃんです」
「岡崎朋也っす」
「春原陽平っす」
「春原芽衣と申します。よろしくお願いします」
俺と春原が軽く頭を下げ、芽衣ちゃんは深々と頭を下げた。
「早苗です。改めまして、よろしくお願いしますね」
「秋生だ。言っとくがアッキーじゃないからな」
一通り自己紹介を終える。といっても、なんだか初対面の気がしない面々だったが。
「それで、ですね……」
「あの、渚さん、よければわたしのほうからお願いしたいと思います」
芽衣ちゃんが古河に代わって事の顛末を説明する。
「はい、了承です」
「ああ」
一秒で了承された! 古河が珍しく自信があると明言しただけのことはある。
「それじゃ妹のこと、よろしくお願いします」
春原が頭を下げる。似合わないし、気持ち悪い。だがこれが兄としての春原なんだろう。
「じゃ、俺はこれで帰るな」
「あ、僕も帰るよ」
「えっ……。岡崎さんと春原さん、帰っちゃうんですか」
「芽衣ちゃんの歓迎会、出ていってください」
両手を合わせて早苗さんが言う。
……すでに歓迎会なんてものが組まれているのか。
「いや、遠慮しときます」
「なんだとてめぇ……売れ残りの早苗のパンが食えねぇってのか!」
そんなこと一言も言ってないし、あのパンが出るんだったら心の底から遠慮したい。
「わたしのパンはっ……」
オッサンの明らかな失言に、またしても早苗さんが涙ぐみ始める。
「やっぱり古河パンのお荷物だったんですねーーーーっ……!」
「俺は大好きだぞーーーーっ!」
ふたりとも店を飛び出していった。
その様子を呆然と見送る。
「それじゃあ、わたしは夕食の準備をしてきます」
この異常事態の中で古河が呑気に言った。
「あ、だったらわたしも手伝いますよっ」
我に返った芽衣ちゃんが、店の奥へ向かう古河に続く。
「芽衣ちゃんの歓迎会ですので、ここはわたしとお母さんに任せてください」
「いや、そのお母さんはどっか行っちまったんだが」
「大丈夫です。すぐに帰ってきます」
古河家にとってはあれが日常の風景なのか。とんでもない家だ。
その後、古河が言った通り早苗さんもオッサンもすぐに帰ってきた。
結局帰り損ねた俺と春原は、歓迎会の準備を始める古河たちを尻目に居間で待つことになった。
*
芽衣ちゃんの歓迎会は、俺にとって久しぶりの賑やかな夕食となった。
あのパンが出てきたら即座に逃げ出そうと思っていたが、出されたのは普通の料理だった。いや、普通どころか出されたカレーはかなりうまかった。
今の春原にはぴったりの料理で、黙々と食べる春原に茶々を入れて楽しんだ。
食べ終わると早苗さんが後片づけで退室し、一息ついてから歓迎会はお開きとなった。
「それじゃ妹のこと、よろしくお願いします」
最後に春原がもう一度頭を下げて、俺たちは古河パンを後にする。
「おい、待て小僧」
店を出て少し歩いたところで後ろから呼び止められる。
振り返るとオッサンがガラス戸から顔を出していた。
「昨日も言ったが俺は岡崎だ、オッサン」
「オッサンじゃねぇよ、秋生様と呼べ」
「話が進まないな。昨日と同じじゃないか」
「おぅ、それそれ。それで昨日は聞きそびれたからな」
「聞きそびれたも何も、あんたが人を呼びつけておいて何も聞かずに帰ったんだろ」
「細かいことを言うな。おめぇ、渚と知り合ったのはいつだ?」
「古河と?」
古河とはずっと昔からの知り合いだったような錯覚に陥ることがある。だが改めて思い返してみると、知り合ってからまだ一月も経ってはいない。あの、何もなかった一日から。
「……二週間くらい前だけど」
「そうか……」
「どうかしたのか?」
「大したことじゃねぇよ。ほら、てめぇらに土産だ」
ビニール袋をふたつ手渡される。
「なんだこれ?」
「早苗のパンだ。遠慮なく持って帰れ」
「遠慮しとくっす」
「なんだとぉ? 冥土の土産がいらねぇってのかっ。三途の川を渡らせるぞ、こら」
恐ろしい土産物だった。
そしてお約束通り、オッサンの背後には早苗さんが立っていた。
「わたしのパンは……」
「げっ」
「三途の川の渡し賃だったんですねーーーーーーっ!」
この人、実はオッサンのネタ振りを待ってるんじゃないだろうか。
そう思わせるほど同じパターンで早苗さんは走り去っていった。
「俺は大好きだーーーーーーっ!」
オッサンもまた同じパターンで、近所迷惑な大声をあげて早苗さんを追っていく。
俺たちはまたしてもその様子を呆然と見送った。
***
冥土の土産を渡される前に無事古河パンから離脱した俺と春原は、真っ暗な道を肩を並べて歩いていた。
「なぁ、岡崎」
「あん?」
「すんげぇ仲良し家族だったね」
「ああ……そうだな」
オッサンに早苗さん、それに古河……
笑顔の絶えない家庭だった。
その中で古河はよく喋り、笑っていた。
あれが本来の古河の姿なのだろう。学校にいた時とも、俺たちと一緒にいた時とも違っていた。
「なんかさ、くすぐったいっていうか……なんだろうね」
「ああ、不思議だった。あんな家族いるんだな」
春原も俺と同じようなことを感じていたのか。
俺はあの家族と時間を共にして、居心地の悪さと同時に何かもどかしい恥ずかしさを覚えていた。
あの感覚はなんだったのだろうか。
いきなり場違いな場所に放り込まれて……子供扱いされて……
俺はいったい何を感じていたのだろうか。
「ああいうのを理想の家族、っていうのかな」
羨望からか、春原が呟く。
「そういやおまえ、孤児だったもんな」
「だから勝手に設定作るなっての。しかも同じネタだし。いつものキレがないね」
「そっかよ……」
家族愛に当てられたからだろうか。俺は何を戸惑っているのだろう。
何度目かの三叉路。まっすぐ行けば学校……というか学生寮、俺の家は……左だ。
「寄ってくんだろ?」
「……いや」
俺は軽く首を振って、足を左に向けた。
「今日はもう帰る」
「まだ8時過ぎだぜ。いいのかよ?」
「ああ……」
振り返ることなく背を向けて歩き出す。
「……じゃあね」
後ろから投げかけられた言葉に片手を上げて応え、歩みを進めた。
歩き慣れた夜道をひとり歩く。
古河の家で感じた不思議な感覚は、まだ俺の中に残っている。
居心地が悪かった。あの場所は俺が居るべき場所ではなかった。
それでもなぜか俺は、あの優しい空間を懐かしいと感じていた。
そして今はひとり。
これから帰る場所もまた、俺の居場所ではなかった。
自分の家に近づくにつれ、懐かしい感覚が痛みのような感覚へと変わっていく。
叫び出したくなるような衝動を無理に抑えて、俺は家路を辿った。
その衝動が"寂しさ"とは、絶対に認めたくなかった。
電気が点いていた。
この時間にあいつが家に居ることはわかっていたはずだ。なのに帰ってきてしまった。
ドアノブに手をかけたところで躊躇する。
さっきまで古河の家で過ごした時間がまるで夢の中の出来事だったように思えるほどの、あまりに違いすぎる空気。
痛みはますます大きくなり、気が重くなる。
俺はそっとドアノブから手を離すと、これ以上の痛みから逃れるために踵を返した。
*
古河パン。そう示されていた看板の電気はすでに消えている。
夜道をさまよい歩いた末に辿り着いたのは、結局この場所だった。
こんなところまで来て、俺は一体どうしようというのだろう。端から見るとストーカーのようだった。
シャッターが閉められた店の佇まい。
俺は古河の存在だけでなく、この場所も懐かしく感じていた。
だがここは間違いなく今日初めて知った場所のはずだ。
そしてこの場所で俺は、本当の家族というものを見た。それは俺にとって夢のような光景だった。
いつか知った優しさ。ここにはそれがあった。そんなもの……俺は知らないはずなのに。
それでも、懐かしいと感じていた。
徐々に痛みが引いていく。
落ち着きを取り戻すと、思った以上に身体が疲れているのに気づいた。
思えば今日は、朝からいろいろなことがあった一日だった。
古河にとって、楽しい一日だっただろうか。俺にとっては……。
店の正面にある公園に足を向ける。
さっき外から見た通り街灯はなく、パン屋の明かりもなくなった今、公園内は真っ暗だった。
公園の隅にベンチを見つける。とりあえずあそこで休んで時間を潰そう。
「もし、よろしければ……」
ベンチに近づいたところで、闇の中から声がした。
振り返ると、そこにはひとりの少女が立っていた。
少女の姿は暗闇の中でもはっきりと見える。まるで光をその身に纏っているかのように。
それは、とても幻想的な光景だった。
「あなたを、お連れしましょうか」
光が揺れ、言葉が紡がれる。
「この町の願いが叶う場所に」
俺に向けてなのか、それとも別の誰かに向けてなのか、ゆっくりと手を差し出しながらそう告げていた。
空気が張りつめる。
自分の家の前で感じた重い空気などとは違う、異質な感覚。
「……」
声が出なかった。まるで金縛りにでもあったかのように体も動かない。
少女が差し出した手をじっと見つめる。
その手の温もりを、俺は知っているような気がした。
いつしか俺は……
動かない体に精一杯の力を込め、その手を、求めた。