土で汚れた少女の手。
擦り傷だらけの手。
それはこの世界でたったひとつの温もりだった。
終わってしまったこの世界で、たったひとつの。
最後まで動かなかったガラクタ人形の埋葬が終わる。
その間、彼女はずっと黙っていた。
じっと『お墓』を見つめている彼女の手を引っ張る。
気づいた彼女に向けて、僕は自分の両手を重ね合わせた。
……また、作るの?
僕は頷く。
……でも、動かないんだよ。……友達はね……できないんだよ。
寂しげに言う彼女に、僕は首を横に振ってみせる。
彼女はガラクタを組み合わせて何かを作ることができる。
それは僕にはできない特別なこと。きっと何か意味があることなんだと思う。
彼方にある記憶を辿る。
遠い昔か、遠い未来……僕が居た場所。いろんなものがあって、楽しくて、寂しくない場所。
彼女が楽しくなって、寂しくなくなるような場所。
そんな場所を、この世界に作る。僕もそれを手伝う。
とても楽しいことだと思う。
僕は彼女の手に、この世界でたったひとつの温もりに、自分の『手』を重ねた。
#17「残光」
俺の手と、少女の手が重なる。
少女と手を繋いでいると、様々な感情が内側から溢れては消えていった。
それは哀しみであったり、寂しさであったり、小さな幸せでもあった。
現れては消えていく感情のうち、最後まで残っていたのは懐かしさ。
少女の手を見た時から感じていたこと……俺はこの手の温もりを知っている。
「……じゃ……いこう」
少女が俺の手を引いて歩き始める。
たったそれだけのことで、動かなかった俺の体に力が戻ってくる。
少女に手を引かれるまま、公園の入り口まで戻ってきたところで拍手が聞こえてきた。
「すごいですよっ、おふたりとも息ぴったりでした!」
ぴょこんと跳ねるように姿を現した芽衣ちゃんの顔を見て、はっとする。
それと同時に俺の手を引いていた少女の後ろ姿が、見覚えのあるものだと気づいた。
「渚さんって、演技うまいんですねっ」
「……え?」
その言葉に足を止めた少女が俺を振り返る。
「わ、わっ、ごめんなさい。手をつないじゃってました」
弾かれたように慌てて俺から離れると、顔を赤くしてわたわたと手を振っている。
先ほどまでの幻想的な雰囲気を纏った姿とはまるで別人のようだった。
「いや、気にしなくていい」
「そうですよぉ。渚さんみたいな可愛い女の人と手を繋いでもらえるなんて、男としてはラッキーですよね」
「いえ……ぜんぜん可愛くないです、わたし」
「えぇっ?」
恥ずかしそうにうつむく古河を見て、芽衣ちゃんが不満そうな声をあげる。
確かに、その点に関してはもっと自信を持っていいんじゃないか? かと言って、自分でラッキーとか言い出されても困るが。
ナルシストな古河か……。
……。
想像もつかなかった。
「どうでもいいが、こんなところで何してたんだ?」
「どうでもよくないですよ。渚さん、可愛いですよねっ?」
「俺に振るなよ……」
「そうです。岡崎さん、困ってます」
口を尖らせる芽衣ちゃんを留めて、古河が俺の問いに答える。
「演劇の練習です」
「……そうか」
「どうかしましたか」
「い、いや、なんでも……」
「渚さんの演技にびっくりしてるんですよ。すごいですよねっ?」
目を輝かせた芽衣ちゃんにまたしても問いつめられる。
「あ、ああ……」
それに気圧されたこともあってか、思わず頷いてしまう。
だが驚いたのは間違いなかった。芽衣ちゃんの言っている驚きとはニュアンスが異なるかもしれないが。
「ほらねっ。やっぱり演劇はたくさんの人に見てもらわなくちゃ」
「とても恥ずかしかったですけど、やってみてよかったです。えへへ……」
どうやらさっきのは芽衣ちゃんの入れ知恵らしい。
今日の昼休みにも部室で古河が演劇の練習をするところを眺めていたが、その時は正直言って何をしているのかわからなかった。
俺自身も古河に言ったことだが、演劇は人に見せるものだ。俺に見せることで古河が少しでも自信を持てるようになるのなら、それでよかった。
「渚ぁー、芽衣ぃー」
カランコロンとつっかけの音を立てながら、オッサンが現れた。
すぐに俺の存在に気づくと、鋭い眼光で睨みつけてくる。
「なんだ、小僧。おめぇ、帰ったんじゃなかったのか」
「俺は岡崎だよ、オッサン」
「秋生様と呼べっつってんだろ、てめぇ」
「ふたりとも、仲いいですね」
「はい、とても仲良しです」
目が合うや否や火花を散らすように睨み合う俺たちとは対照的に、古河と芽衣ちゃんがにこやかに笑い合う。
「どうかしましたか、お父さん」
「おっと、小僧の相手なんかしてる場合じゃねぇ。ふたりとも、そろそろ風呂が沸くぞ」
「はい。それじゃ先に入ります」
「一緒に入りましょうねっ」
腕を組んで楽しそうにしているふたりをぼーっと眺めていると、オッサンが耳元に顔を寄せてくる。
「てめぇ……今、想像したろ」
「何をだよ」
「しらばっくれるんじゃねぇ。渚と芽衣の入浴シーンだよっ」
「んなもん想像してねぇよ……」
「んだとぅ! それでも男か、てめぇ!」
耳打ちの意味がないオッサンの大声に、芽衣ちゃんが振り返る。
「なんなら……岡崎さんも一緒に入りますか?」
芽衣ちゃんは膝に手を当てて前屈みになると、上目遣いでとんでもない提案をしてくる。
「ええっ!?」
俺が驚くよりも先に古河が声をあげた。
「あははっ、冗談ですよぉ」
芽衣ちゃんは悪戯っぽい笑みを浮かべて軽く舌を出すと、ぴょんと元気に背筋を伸ばす。
この子はもういろんな意味でヤバい。俺には妹属性などという嗜好はないと思っていたんだが……。春原のあのシスコンぶりにも納得がいく。
「てめぇ……今、落胆したろ」
「してねぇよ」
「嘘つけ、このむっつり野郎がっ」
「それじゃ岡崎さん、わたしたちはこれで」
「ああ」
耳元のうるさい雑音を無視してふたりに手を振る。
「よーし、お父さんも一緒に入るぞぅっ!」
間もなくオッサンもふたりの後を追って、跳ねるように家へと帰っていった。
「ダメですっ! お父さん、エッチですっ」
その言葉を最後に、再び静寂が訪れる。
「……ふぅ」
なんとなくため息をつきながら、公園の隅まで戻ってベンチに座る。
この時期だとまだ冷たい夜風が公園を吹き抜けていく。俺は軽く身震いした。
古河の演劇……。
先ほどは言葉を濁したが、正直言うと圧倒された。
それと同時に、なぜか怖かった。
俺はあの時、何を恐れていたんだろう。体が動かせなかったことにだろうか。思い返してもわからなかった。
何気なく古河の家に目を向けると、さっき帰ったはずのオッサンが何かを手に戻ってきた。
「忘れもんだ」
ビニール袋を押しつけられる。
中に入っていたのは、早苗さんのパンという名の恐るべき冥土の土産だった……。
***
次の日は日曜。
俺は朝から春原の部屋(通称:馬小屋)へと足を運んでいた。
ドアを開けると、積み重ねられたゴミ袋を迂回して中に入る。
「うまうま……」
案の定、春原(馬名:カモノネギ)はまだ寝ていた。ニンジンでも食べる夢を見てるのか、口をもぐもぐさせている。
「おい、起きろ春原。朝飯を持ってきてやったぞ」
「う、うぅん……あと5分……」
「朝飯はいらないのか」
「ぅ……昔みたいにおまえが食わせてくれよ……」
「んなこと一度もしたことねぇよ……」
「う、んぁ……芽衣……?」
なんだ? 寝ぼけて俺を芽衣ちゃんと勘違いしてるのか。
つーかこいつ……実家ではいつも芽衣ちゃんに食わせてもらってるのか。
……。
なんだか無性に腹が立ってきた。
……別にうらやましいわけじゃないぞ。
「仕方ないな。食わせてやるよ、お兄ちゃん」
持ってきたビニール袋からニンジンと似た形の食べ物(たぶん)を取り出すと、半開きになったその口にねじ込んだ。
「……」
もぐもぐと咀嚼し、食す。
すぐに異変は表れた。
「What some beat!」
口から火が出るほどの勢いで舌を突き出して布団から跳ね起きると、そのままの勢いで跳び上がり、包帯を巻いた頭を電灯にぶつけて顔面から床に落下した。
「おー、すげぇ威力だな」
「って、何を食わせたんだよっ!」
「さぁ、俺にもわからん。古河ん家でもらったパンだからな。つーかおまえ、わさび!って叫んでたじゃん」
「マジかよ……」
春原は口から吹き出したパンを拾い上げると、それをふたつに割って中身を覗き込む。
「うっわ、粉わさびがいっぱい入ってる……」
「やべぇな……」
昨日の燃えるパンといい、激辛ブームなんだろうか。
「まだ口ん中がひりひりするよ……。ちょっと水飲んでくる」
「俺、コーヒーな」
「出ねぇっての!」
いつものツッコミを残して春原は部屋を出ていった。
手持ち無沙汰でコタツの定位置に座って足を突っ込むと、昨日片づけた雑誌を棚から取り出してパラパラとめくる。そうしている間に春原が帰ってきた。
「おかげですっかり目が覚めちゃったよ」
「礼ならコーヒーでいいぞ」
「礼なんて言ってねぇよっ」
ぼやきながら、定位置である俺の正面に座る。
「それで、こんな朝早くに何か用?」
「朝早く、つっても10時過ぎてるけどな」
「僕らにとっては朝早く、だろ」
「まぁな」
読みかけの雑誌を閉じると、背後にうずたかく積まれたゴミ袋にもたれかかってみる。が、やっぱり空き缶類がベコボコして痛かったのでやめた。
「なんだか急におまえの淹れたコーヒーが飲みたくなったんだ」
「あのね……」
適当にごまかすも軽く流される。
「昨日の帰りさ、やっぱり寄っていけばよかったんじゃない?」
「かもな……」
図星を突かれたが、俺はそれを否定しなかった。
長い付き合いとはいえ、春原にも簡単に気づかれてしまうほどだ。昨日の俺は自分でもわかるくらいに様子がおかしかった。
「よしっ。せっかく早起きしたんだし、今日も冒険しようぜ!」
居心地の悪い沈黙を破って、春原が立ち上がる。
「はぁ?」
「とりあえずはメンバー集めだな。芽衣の様子も見に行きたいし、渚ちゃん家に行こうぜ」
「お、おい、ちょっと待てよ」
いつになく強引にそう決めると、春原は身支度を始めた。
*
間もなく寮の外に出る。
「確か、あっちの道だったよね」
「本当に行くのか?」
「モチのロンさ!」
「すげぇ死語な」
「藤林杏のいない休日こそが、ダンジョンをクリアするチャンスでしょ?」
「古河や芽衣ちゃんはともかく、他にメンバーが集まらないと思うんだが」
「なんとかなるって。ほら、早くいこうぜ」
こうなっては、もう誰にも春原を止められない。
だがあのまま居心地の悪い沈黙を続けているよりはずっとよかった。
「あの公園だよね?」
「ああ、そうだな」
しばらく歩くと、見覚えのある公園が目に映る。
昨日とは時間帯が違うので少し印象は異なるが、間違いなく古河の家のすぐそばにある公園だった。
「公園を抜けていくか」
「おっ、いいね。砂場とか踏み荒らしていこうぜ」
ガキか、おまえは。
「思ったよりも広いねぇ」
公園に足を踏み入れる。
周囲を見回す春原をよそに、俺は公園の隅へと目を向けていた。
昨日俺が座っていたベンチには、今は若い男が座っている。うつむき加減のその顔に見覚えがあった。
「……芳野祐介」
「えっ、嘘っ!?」
俺の呟きに驚きの声をあげた春原が、俺の視線を追う。
まるで俺たちの視線を察知したかように男が顔を上げた。今日はヘルメットや作業着を身につけていないが間違いない。芳野祐介だった。
こちらがはっきりと顔を認識できるくらいだ。向こうにもすぐに気づかれる。俺たちはベンチへと近づいていった。
「ちっす」
「ああ。あんたは確か……国崎だったか」
「岡崎っす」
「ああ、そうだった。似てるから間違えた」
なぜかわからないが、似てると言われても嬉しくなかった。
「で、そっちのあんたは……斉藤だったな」
「ええ。俺の召使いのナンディ斉藤っす」
「誰がじゃ! 勝手に肯定するなっ」
「そうか」
「って、本気にしないでくださいよっ。僕、春原っす」
「ああ、そうだったか。似てるから間違えた」
「一文字も合ってないんすけど……」
もしかしてこの人、名前を覚えるのが苦手なんだろうか。
「どうだ、少しは上達したか?」
「……え?」
「ギターだよ」
「あ、あぁっ、ギターっすね! そりゃもうバリバリっすよ。毎日ギュイギュイいわせまくってるッス」
部屋中を探し回らなきゃ見つからないくらいに埋もれていたが。
「そうか。じゃあまた今度聴いてやるから、そんな怪我であまり無理するなよ」
「は、はいっ!」
墓穴を掘った春原が頭の包帯ターバンのずれを正しながら、ぴんと背筋を伸ばす。芳野祐介っていい人だなあ。
「今日は仕事休みなんですね」
「ああ」
「こんなところで何してるんすか」
「人を待ってる」
「デートっすね」
「そんなんじゃない。おまえたちこそ、こんなところで何してる」
「あ、僕らはそこのパン屋に……」
春原の指差す先。
古河パンの前は、人でごった返していた。
「うわっ、何あれ?」
思わず口を突いて出たであろう春原の言葉。俺も同じ心境だった。
「今日は忙しそうだな」
芳野さんの落ち着いた様子に、もしかしてあのパン屋は地元でも有名な人気店なんじゃないかという錯覚に陥る。というか錯覚だと思いたい。
いや、待て。昨日のカレーはめちゃくちゃうまかったじゃないか。もしかしたら、あのパンは数少ないネタなのかもしれない。
「ちょっと様子を見てくるよ。それじゃ芳野さん、また今度」
「俺も行く」
芳野さんに軽く頭を下げると、走り出した春原を追って俺も古河パンへと向かった。
「いらっしゃいませーっ」
行列を作っている客の合間を縫って店内に入ると、エプロン姿の芽衣ちゃんがトレイ片手に出迎えてくれる。
「……なんだ、おにいちゃんか。あっ、岡崎さん。いらっしゃいませーっ」
客が兄だとわかると急に声のトーンが落ちる。が、すぐ後ろに立つ俺の姿に目を留めて再びトーンが上がった。
「芽衣……おまえ、何やってるんだよ」
「見ればわかるでしょ? 泊めてもらうだけじゃ悪いから、お店のお手伝いをしてるんだよ」
胸元にウサギのマークがついたエプロンの裾を軽く持ち上げてみせる。
「おにいちゃんたちも手伝ってくれるの?」
「手伝う、って言ったってさ……一体なにをすればいいんだよ」
「奥に渚さんが……あ、いらっしゃいませーっ」
芽衣ちゃんは話の途中で新たな客を出迎えに行ってしまった。
それにしても、この盛況ぶりには驚くばかりだ。
「岡崎さん、春原さん、いらっしゃいです」
「よぅ」
古河はレジに立っていた。
「それじゃ渚ちゃん、がんばってくださいね」
「はいっ、ありがとうございました」
古河の知り合いらしい女性客が精算を終え、袋を手に店を出ていく。
次の客がレジに並ぶまでの短い間に、俺は店の奥へと入った。
「オッサンと早苗さんは?」
「お父さんは野球に行きました。お母さんには休んでもらってたんですけど、今はお昼ご飯を作ってくれてます」
「野球……?」
「お父さんの趣味です。近所の子供たちと野球するんです」
「あの人もいろいろやってるんだな」
パンを載せたトレイを持った男性客がレジ前に来ると、古河は手際よく精算を済ませていく。
「ありがとうございました」
「いつもこんなに忙しいのか?」
「いいえ。今日はお客さんがいつもよりずっと多いです」
「はい、一名様ご案内~。ありがとうございまーす!」
休む間もなく芽衣ちゃんに連れられた男性客がレジに並ぶ。レジ打ちを始める古河の邪魔にならないように、とりあえずその場から離れた。
てきぱきと働く芽衣ちゃんを尻目に、店内の喧騒から逃れるように店の奥へと入ってきた春原と顔を見合わせる。
「迷惑かけてないか様子を見に来たけど、よく考えたらそんな心配の必要もなかったんだよな、あいつは」
「手馴れたもんだな」
「言ったろ? 芽衣は何をやらせても器用にこなせてしまうんだよ」
「俺にくれ」
「やるかっ」
そんなに広いとは言えない店内に、続々と客が入ってくる。
何か手伝おうにも古河と話す余裕がなかった。
「つーかさ……さっきから店に入ってくるの、若い男ばっかりじゃない?」
「そういや、そうだな」
「なんか腹立ってきたんだけど」
「シスコン兄さんはお怒りか」
「シスコンじゃありません」
芽衣ちゃんへ向けて無遠慮に投げかけられる男どもの視線に我慢できなくなってか、春原は大声で芽衣ちゃんを呼ぶ。
「おい、芽衣っ。僕が代わりにやっとくから、おまえは今すぐ公園のベンチを見てこいよっ」
「えっ、どういうこと?」
「いいからっ。早くしないとどっか行っちゃうかもしれないだろっ」
「う、うん」
少し戸惑いながらも、芽衣ちゃんは言われた通りに店の外へと出ていった。
途端に男性客から落胆の声が漏れる。おまえらロリコンか。
が、すぐにレジ係の古河へとターゲットを移し、再び無遠慮な視線を投げかける。だんだん俺も腹が立ってきた。
「ジロジロ見てんじゃねぇよ……。パン屋に入ったら、まずパンを買え」
睨みをきかせながら、カウンターの前に陣取って古河への視線を遮断する。
「これが今日のおすすめだからな。ひとり一個は買っていけよっ」
店内スペースでは芽衣ちゃんの代わりに入った案内役の春原が、昨日自分が食って火を吹いた燃えるパンを無理矢理買わせていた。
そのおかげもあって(?)徐々に客は減り、店内も落ち着きを取り戻してきた頃、芽衣ちゃんが帰ってくる。
「ただいまぁ」
「どうだ、会えたか?」
「会えたって、いったい誰になの? ベンチには誰も座ってなかったよ」
「ありゃ、もう行っちゃってたか。僕、ちょっと呼んでくる!」
「あっ、待ってよぉ」
芽衣ちゃんの制止も聞かずに春原は店を飛び出していった。
もしかして芳野さんをここに連れてくるつもりなんだろうか。
「もう……人の言うこと、ぜんぜん聞かないんだから」
芽衣ちゃんはため息をつきながらも兄の後を追おうとする。
「待った」
その後ろ姿を呼び止める。
春原がどうするつもりなのかはわからないが、芽衣ちゃんにはここにいてもらったほうがいいだろう。
「俺が行くよ」
「でも……」
「芽衣ちゃんは店のほうを頼む」
「……わかりました。岡崎さんにお任せします。どうか兄をよろしくお願いしますね」
「任せとけ。引きずり回してでも無事に連れ戻すから」
ぐっと親指を立てて応える。
「それ、兄の身はあんまり無事じゃないかと」
「半分冗談だ」
「あはは……できるだけ穏便にお願いしますね」
苦笑いを浮かべる芽衣ちゃんと古河に軽く手を振って、店のガラス戸を開く。
「いってらっしゃいです」
古河の言葉を背に受けて、俺は古河パンを後にした。