はじまりの三重唱

一年。

それは長い、長い日々だった。

私もりえちゃんも、今日から2年生になる。

校門に向かって延びる長い坂道には桜並木が続いていて、この季節になると一斉に花開き、周囲の景色を一変させていた。

坂の下で立ち止まって満開の桜を見上げていた私たちの目の前に、ひらひらと花びらが舞い降りてくる。

「この桜も、来年には見られなくなるかもしれないね……」

手のひらを差し出して花びらを受け止めたりえちゃんは、寂しそうにぽつりと呟いて再び桜を見上げた。

そう。ここに並ぶ桜の木は近いうちに切られてしまう。

理由は知らない。全校集会か何かで淡々と伝えられただけだった。

それに、理由を知ったところで私たちにどうにかできるようなことではない。

そう遠くない未来にこの桜並木はなくなってしまう。ただそれだけだ。

ここはあの事故以来、ずっと沈み込んでいたりえちゃんが――心の底からではなかったにせよ――初めて笑顔を見せてくれた場所だった。

一年前の入学式の日。私たちは今と同じように桜並木を見上げていた。

天まで届くかのようにどこまでも続く景色に目を奪われていた。

時も忘れてその景色に見惚れていた私たちは、チャイムの音で時間がやばいことにようやく気づき、ふたり向かい合って笑った。

そして今……私たちは変わらずここにいる。

いつの日かりえちゃんが元気になった時のために、私は音楽を続けてきた。

でもりえちゃんは……まだ立ち止まったままだ。

2年になってクラスも別々になってしまった。私にできることなんて、りえちゃんのそばにいることだけなのに……。

もう私には、どうしたらいいのかわからない。

私もりえちゃんもふたり坂の下で立ち尽くしたまま、来年にはもう見られないかもしれない景色を眺め続けていた。

それはまるで、夢を見失い先へ進めなくなってしまった私たちを……そしてその夢も時間と共にいつかは消えてしまう……そんな未来を、暗示しているようだった。

朝露のリズム ~Mezzo-Soprano Part~

始業式から一週間。

りえちゃんとの物理的な距離は遠くなってしまったが、私は足しげくC組に通っていた。

学年は変わっても、以前と変わらない日々。

その変わらない日々は、ある日の放課後を境に大きく変わろうとしていた……。

『……年B組……さん。2年C組、仁科さん。職員室まで来てください』

ホームルームも終わって放課後の騒がしさに包まれたC組の教室。

校内放送で呼び出される複数の生徒の最後に、りえちゃんの名前が呼ばれた。

私とりえちゃんはふたり顔を見合わせる。

りえちゃんにも呼び出される心当たりがないようだった。

「りえちゃん、今週は渡り廊下の掃除当番だったよね。私がやっておくから、りえちゃんは職員室へ行ってきなよ」

「でも、至急来てくださいとは言ってなかったし、掃除が終わってから行くよ」

「いや、それはいくらなんでものんびりしすぎだから」

「そうかなぁ……」

「いいからいいから。私に任せときなさいって」

「うん、ありがと」

職員室に向かうりえちゃんと途中で別れて、新校舎と旧校舎を結ぶ渡り廊下へと足を向けた。

今日は部活も休みだし、りえちゃんと一緒に帰ろう。

渡り廊下の掃除を終わらせて、廊下の角に設置されたロッカーに掃除用具を仕舞う。

ロッカーの扉を閉めると同時に、ガタンと大きな音がして隣のロッカーが揺れた。

「?」

私は深く考えもせずに隣のロッカーの扉を開いてしまう。

「ひいぃぃぃーーっ!」

「うわあああーーっ!」

ロッカーの中には正体不明の物体がいた!

かまいたちの夜!? 後ろに立つ少女っ!?

混乱する私をよそに、その物体はいきなり奇声を発してすごい勢いでロッカーから飛び出し、廊下に頭をこすりつけた。

「すんませんすんませんっ! もうあんなことしませんからっ」

な、なんだ……死体じゃなかったのか。

目の前でいきなり土下座を始めた男子生徒を冷ややかな目で見下していると、ようやく向こうもこっちに気づいたようだ。頭を上げると、ズボンの埃を払って立ち上がる。

「なんだよ……驚かせやがって」

それはこっちのセリフだ。

ちっ、と舌打ちした男子生徒は、ロッカーの扉を開けっ放しにしたままでどこかへ去っていった。

あの金髪は確か、有名な上級生の不良だ。また何か問題でも起こして先生に追いかけられていたのだろうか。あんな奴がこの学校でよく退学にもならず3年になれたものだ。

なんだか腹が立ってきた私は、開け放たれたロッカーの扉を乱暴に閉めて職員室へ向かった。

職員室にりえちゃんの姿は見当たらなかった。

「ああ、仁科さんなら幸村先生と生活指導室に行ったわよ」

通りがかった1年の時の担任に聞いてみると、予想外の答えが返ってくる。

校内放送ではりえちゃん以外にも何人か一緒に呼ばれていたのだが、なんでりえちゃんだけが生活指導室に?

生活指導室にはあまりいい印象を持っていなかった。さっきの金髪の不良みたいな奴が呼ばれる場所だからだ。

嫌な予感に煽られて、私は教えてくれた先生への礼もそこそこに職員室を飛び出した。

『どうしてですかっ!?』

私が生活指導室の前に辿り着くと、部屋の中から声が聞こえてくる。

聞き違えるはずがない。このよく通った声はりえちゃんだ。

でもその声は、普段からは考えられない剣幕だった。

あれこれ考えている余裕はない!

私は勢いよくドアを開けて生活指導室の中へと踏み込んでいた。

「りえちゃんっ!?」

「え……? すー、ちゃん……?」

そこには驚いた様子のりえちゃんと、ひとりの老教師がいた。

確か、この人が古文の幸村先生だ。「ゆきむら」でなく「こうむら」という珍しい読みだから記憶していた。

私にとって直接は知らない先生だったが、りえちゃんは1年の時、選択教科に古文を選んでいたから面識があるのだろう。

「ごめんね、すーちゃん。もう少しかかりそうなの」

「こりゃあすまんかった。友達を待たせてしまっていたようだの」

「いえ……こっちこそ勝手に入ってしまってすみません」

また後先考えずに行動してりえちゃんに迷惑をかけるところだった。

私は平静を取り戻すと、軽く頭を下げて退室しようとした。

「……?」

後ろから何かに引かれるような感覚。

振り返ると、りえちゃんが制服の裾を掴んでいた。

「りえちゃん……?」

「……やっぱり、一緒に……」

うつむいていたりえちゃんが顔を上げた。

その顔を見て、はっと驚く。

裾を掴んだまま上目遣いで私を見上げているりえちゃんの姿は、小さな子供のようにも見えた。

「すーちゃんも、一緒に……いてほしい」

初めてだった。

りえちゃんが私に弱さを見せたのは。

いつだってりえちゃんは、ものすごく綺麗でものすごく可愛くて……私の前では普通の女の子だったけど、ヴァイオリンを掲げた姿はものすごく格好良くて、凛々しくて……

周りの人間からは天才だとか陳腐な言葉で呼ばれていたけど、私は知っている。

りえちゃんが人一倍頑張り屋なことを。それに人一倍、音楽が大好きということも。

小さい頃からずっとそばにいた私だけは、知っていた。

そしてりえちゃんは、いつだって笑顔だった。

たとえつらいことがあっても、それを表に出すことはなかった。

まるですべてを受け入れているように。

だから私みたいな人間も受け入れられたのかもしれない。

いつだって私の憧れだったりえちゃん。

大好きなりえちゃん。

そのりえちゃんが初めて私を頼ってくれた。

私は無言で頷いて、幸村先生とまっすぐに向かい合う。

「私も一緒に居させてください」

「……ふむ」

先生はゆっくりとした動作でりえちゃんのほうを向く。

「仁科さんがそれでいいのなら、わしは構わんがの」

「はい、お願いします……」

「ふむ……ではお茶を淹れてこよう」

りえちゃんが頷くのを見て、先生は急須を持ってゆっくりと立ち上がった。

先生が窓際の棚の上に置かれた給湯器で急須にお湯を注いでいる間に、私はりえちゃんの隣のソファーに腰を下ろし、小声で話しかける。

「何があったの?」

「うん……」

りえちゃんが言うには、選択教科の話らしかった。

うちの高校には必須教科以外に選択教科があって、好きな教科をふたつ選べるようになっている。選べるといっても定員はあるので、確実ではないが。

りえちゃんたちはそのことで職員室に呼ばれたようだ。古文の希望者が予想以上に多く、希望者が少ない教科のために第二、第三希望以外の教科でも妥協してくれるかを相談していたのだ。

ここまで聞いてだいたい察しがついた。

りえちゃんが妥協できるはずがない。あの教科に。

「待たせたかの。熱いから気をつけて飲みなさい」

幸村先生は細い目をさらに細めて、お茶の入った湯飲みを私の前に置く。

「いえ……どうもありがとうございます」

湯飲みに口をつけて、ずず……と音を立ててお茶をすする。

先生も同じように湯飲みを傾けると、息をついてからゆっくりと話し始めた。

「さて……どこまで話したかの」

「いや、私に聞かないでください」

「どうして……どうして音楽なんですかっ? ほかに世界史とか美術とか……」

りえちゃんが急かすように口を挟む。いつものりえちゃんからはありえない行動だった。

「職員室でも言ったが、音楽の希望者が少なくての」

私はその少ない音楽希望者のひとりだったが、りえちゃんの前で音楽の話はなるべくしないようにしていたので、りえちゃんは知らないかもしれない。

「で、でも……どうして私が……」

りえちゃんは勢いを失ってうなだれてしまった。

「ふむ……」

頷いた先生がお茶をもう一口すする。

「……仁科さんは、音楽が嫌いかの?」

そして、今のりえちゃんにとって最も残酷な質問を投げかけていた。

この人はりえちゃんのことを知らないのか。

それとも知っていて、こんなことを訊いているのか……っ。

だったら許せなかった。

「……私は……」

りえちゃんは長い沈黙の後、絞り出すように口を開いた。

「私は……音楽が好きです。だから……」

りえちゃんは音楽が好き。

私もよく知っている。だから……

「好き、だから……っ、つらいんです。もう、私は……」

好きだから。好きだからこそ、つらかった。

りえちゃんの腕が震えている。拳を強く握りしめていた。でも片方の手は、握られてはいても力が入っているようには見えなかった。

「私のこの手は、もう音を奏でることができないから……」

りえちゃんは力の入らない手を……もう二度と以前のような演奏ができなくなってしまった自分の手を、悲しみに満ちた表情でじっと見つめていた。

私はりえちゃんの震える手を自分の手で優しく包み込む。

そしてりえちゃんに悲しみを思い出させた老教師を、強い怒りをぶつけるようにして睨みつけた。

「ふむ……」

私の視線をまっすぐに受け止めた先生はひとつ頷くと、細い目を少し開いてゆっくりと立ち上がった。

「音楽が好きなら……我慢することはない。耳を塞ぐこともない」

その穏やかな言葉に、りえちゃんの表情が悲しみから驚きに変わる。

「楽器が弾けなくても、音楽はできる……」

先生はそう言って軽く咳払いすると、深呼吸でもするように大きく一呼吸入れて……歌い始めた。

この学校の生徒なら誰もが知っている歌……校歌を。

だがそれは、お世辞にもうまいとは言えない歌だった。音程は外れていたし、声もしわがれていた。

突然歌い出した幸村先生を私もりえちゃんも呆然と見つめていたが、やがてりえちゃんは穏やかな表情で目を閉じた。

私も目を閉じる。

…………。

しわがれた声でも、音程が曖昧でも……それはとても心がこもった歌だった。心動かされる歌だった。

さっきまで怒りに満ちていた私の心も次第に落ち着いていく。

不思議だった。

「……希望も熱き若人が……」

やがて、歌声がふたつになった。

……。

私は夢を見ているのだろうか。

いつの間に眠ってしまったのだろう。

目を開く。

そこには……窓から差し込む夕焼けの朱に照らされて、幻想的な光景が広がっていた。

「抱きて巣立つ学舎よ……」

ソファーから立ち上がって、ひとりの少女が歌っていた。

その姿は、まるで幻想世界の妖精のように綺麗で、可愛くて……格好良くて、凛々しくて……

ヴァイオリンを弾いていた頃のりえちゃんだった。

昔の元気なりえちゃんだった。音楽が大好きな、りえちゃんだった。

「あゝ 光差す……」

私も立ち上がり、一緒に歌い始める。

三つの声はやがてひとつになって、どこまでも響き渡っていった。

茜色の空。周囲もすべてが夕焼け色に染まった帰り道。

人通りの少ない坂道を、私とりえちゃんはふたり並んでゆっくりと下っていく。

りえちゃんは選択教科を音楽に決めた。幸村先生に言われたからではなく、今度は自分の意思で。

「本当によかった……」

「すーちゃん……」

思わず呟いた私の顔を、りえちゃんがまっすぐに見つめていた。

その宝石のような瞳に吸い込まれそうになる。

「……ありがとう」

澄んだ瞳で私をじっと見つめたまま、りえちゃんは今まで一度も見せたことのない満面の笑顔で礼を言った。

その短い言葉の中に、言葉では表し切れないものがいっぱい込められているように感じた。

私も、りえちゃんの瞳をまっすぐに見つめる。

視線が交わり、やがてひとつになった。

今すぐにでも目の前の小さな体を抱きしめたい衝動に駆られる。

「りえちゃん……」

息がかかるほどの距離まで近づいても、りえちゃんは離れない。

ああ……このまま抱きしめたら気持ちいいだろうなぁ。りえちゃん、柔らかそうだし。

理性が本能に押し潰されそうになったところで、帰路を急ぐ何人かの生徒が近くを走り抜けていった。

我に返った私は慌ててごまかす。

「あ、当たり前でしょ! 私とりえちゃんは親友以上なんだからっ」

「うんっ! ……って、親友以上?」

「親友以上。つまり、精神的にも肉体的にもそれ以上」

「肉体的って……。私、そういう趣味ないんだけど……」

「ガーーーーン!」

りえちゃんの冷ややかな視線と、いつものやり取り。

でも昨日までとは違う。

久しぶりに見るりえちゃんの心からの笑顔が、私の心まで躍らせていた。

***

「合唱部を作ろうと思うの」

休み明けの月曜日。

一緒に登校していたりえちゃんが、桜舞う坂の下でそう切り出した。

「りえちゃん……!」

私は嬉しかった。

これまでの一年間、りえちゃんはずっと無理に笑顔を浮かべていた。

大好きな音楽を失って、つらいなんて言葉では言い表せないくらいなのに……それを表に出すことはほとんどなかった。

まるですべてを受け入れているように。

でもそれは、りえちゃんの強さから出た笑顔ではなかった。

そして昨日、初めて弱さを見せたりえちゃんは、歌と共に前を向いて歩き始めた。

自分のことのように……いや、それ以上に嬉しい。

でも……

本当は、私は悔しかった。

これまでの一年間、私がずっと元気づけようとしてもダメだった。

それを、たった一曲の歌でりえちゃんに本当の笑顔を取り戻させた幸村先生。

ずっとりえちゃんを見てきたはずなのに……。

ずっとりえちゃんだけを見てきたはずなのに……。

私には何もできなかった。

ただ、りえちゃんのそばにいることしかできなかった。

…………。

「どうしたの? すーちゃん」

目の前にりえちゃんの笑顔があった。

この笑顔は今、私だけに向けられている。

ずっとずっと今の笑顔が見られ続けるのなら、なんだっていい。そう思った。

「ううん、なんでもない。もちろん私も協力するよっ!」

「うんっ、ありがとう。まずは先生に聞いてみようかなって思ってるの」

幸村先生のおかげで、元気だった頃の……本当のりえちゃんが帰ってきた。

ここからは私の役目だ。

立ち止まっていたりえちゃんの背を押してくれたのは幸村先生だったけど、歩き出したりえちゃんと共に歩けるのは私しかいないのだから。

優しい春の風が桜の花びらを空に舞い上げ、踊らせている。

校門まで続く坂道の両脇に立ち並んだ桜の木をふたりで見上げる。

「桜、来年も見られるといいね」

「うんっ」

りえちゃんの言葉に、私は力強く頷いた。

私たちは来年もきっと、この桜並木を一緒に見上げているだろう。今はそう信じることができる。

「行こっ!」

どちらからともなく声を合わせ、歩を合わせ、私たちは登り始める。

この、長い、長い坂道を。

朝の光差す道を。

――終わり。

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感想などをお題箱で伝えてくれたら嬉しいです!

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後書き

合唱部の斬り込み刀こと杉坂の章でした。原田の章と違ってシリアス風。

原田の章でも少し触れてましたが、幸村先生の歌に感銘を受けてりえちゃんが本来の自分を取り戻した時期を私的解釈し、補完したのが今回のお話です。合唱部が4月22日の時点ではまだ正式に部として成立していなかったこと。部活説明会という正規の方法で部員を募集していれば、合唱部はすでに設立できていたはず。そういった点を吟味しました。

幸村先生の歌については相当悩んだ結果、現在の形に。歌詞はネタっぽいけどね。「願いが叶う場所 ~Vocal&Harmony Version~」とか、同時収録の「翼をください」とか、いい感じだけど幸村先生が歌うにはしっくりこなかった。

杉坂一人称だけあって「りえちゃん」という呼称が80回くらい飛び出してますが、楽しんでもらえれば嬉しい!