「卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
一礼して卒業証書を受け取る。
こうして……私の高校生活は終わりを告げた。
思えば、長いようで短い三年間だった。
この三年間で私はこんな紙切れ一枚より、もっと大切なものを得た。
それは十年前の出会いと同じくらい……私にとって一生忘れられない出来事。
三年間の大切な思い出を胸に、私たちはここから巣立っていく。この場所はゴールではない、新たなスタートなのだ。
壇上から体育館を見渡して、これからの未来へ一歩を踏み出すように階段を下りた。
「おめでとう、すーちゃん」
自分の席(といってもただのパイプ椅子だが)に戻ってくると、後ろの席のりえちゃんが小声で話しかけてくる。
「ありがとう、りえちゃん」
この三年間を共に過ごしたりえちゃんに感謝の言葉を送る。そして……
ありがとう……古河さん。
今、この場にはいない友達に向けて、心の中で感謝の言葉を送った。
♪CLANNAD 10years after ~杉坂~
がらんとした部室。
二年間、私たちが一緒に過ごした思い出の場所。
その窓際に、りえちゃんは立っていた。
優しい眼差しで窓の外を眺めているりえちゃんの横顔は、女の私でも思わず見惚れてしまうくらいに綺麗だ。
そんなりえちゃんの穏やかな顔を眺めるのが、これまでの私の楽しみだった。
だが、そんな風景も今日で見納めだ。
「~♪」
不意にりえちゃんの口を突いて出たのは、懐かしいあの歌。
小さい頃、私がよく歌っていた……あの歌だった。
~
十年前。
私は習い事を転々としていた。
早めの反抗期と生まれついてのあまのじゃくな性格が相まって、どの習い事も一週間ともたずやめてしまっていた。
そんな中、親に連れていかれたヴァイオリンコンクールの会場で、私は運命の出会いをした。
ヴァイオリンという楽器の名前を知ってはいても実際に見たことも触ったこともなく、その音もテレビだかラジオだかで聴いたことがあるだけだった私が、その演奏には圧倒された。
壇上で演奏している少女は私と変わらない年頃で、緊張している様子も感じられず、ものすごく堂々としていて、ものすごく綺麗で、ものすごく格好良かった。
舞台に立つ少女の姿を……光を身に纏ったその姿を見て、私は生まれて初めての感情を抱いた。
ひねくれた子供だった私が、初めて素直に感動を示したのだ。
ヴァイオリンに……音楽に興味を持ったのもその時だった。
私がヴァイオリンを習いたいと言ったら、親は諸手を挙げて喜んだ。
でも少女が通っているはずのヴァイオリン教室に、その姿はなかった。
聞くと先生は「あの子は特別だから」と言った。
朱に交われば赤くなる。こいつは私たち俗物と一緒にいることで天才少女が堕落するのを恐れたのだ。
ひねくれた私がそんな言葉に従うわけもなく、私は初日から彼女の個人レッスンに乗り込んでいって無理やり自己紹介した。彼女のぽかんとした顔が印象的だった。
それでも子供の力で何かが変わるわけもなく、その後も彼女が私たちと一緒に演奏することはなかった。
そこで私は、卑劣で陰湿で幼稚な手に出た。
彼女のヴァイオリンを隠したのだ。
こうしてしまえば、私たちも一緒に演奏の練習ができる……。
浅はかな考えだった。
さらに私は、彼女のヴァイオリンに対する大きな思いをまるで考えていなかった。
自分のヴァイオリンがなくなって取り乱す彼女の姿を見て、私はようやく自分がしでかしたことの愚かさに気づいた。
私は隠していたヴァイオリンを少女に返し、本当の気持ちを打ち明けた。
あの日見た少女の姿は美しかった。でも私はその子を遠巻きに見たくてここに来たわけじゃない。
話してみたかった。ヴァイオリンを聴かせてほしかった。ヴァイオリンについて教えてほしかった。
泣きじゃくる私の手を取って、少女――りえちゃんは言った。
わたしもみんなといっしょに練習したい、と。
彼女も私と同じ気持ちだったのだ。
私たちの間に距離はなく、それを隔てていたものも今はなくなっていた。
私たちは、友達になった。
周囲に天才と謳われる少女がその実、相当な努力家であることを知った時、水面を優雅に行く白鳥も水中では足を必死にバタバタさせている……そんなビジュアルを想像して私は思わず笑ってしまった。
想像をそのまま本人に伝えると、彼女は頬を膨らませて拗ねてみせた。怒ったりえちゃんは天才少女などではなく、どこにでもいる普通の女の子だった。
天才少女仁科りえは、私も含め周囲の人間が抱いた幻想。勝手に期待を膨らませた結果生まれた虚像だった。
それに気づけた時、私はりえちゃんと本当の友達になれた気がした。りえちゃんが前以上に好きになった。
そしてりえちゃんも、私のことを友達と言ってくれた。これほど嬉しいことは今までになかった。
彼女は優しい。まるですべてを受け入れているかのように、いつだって笑顔だった。
私みたいな斜に構えた人間を友達として受け入れてくれたのも、その優しさからだ。
りえちゃんと一緒にいる時だけは私も素直になれた。りえちゃんにだけは本当のことを話せた。
この頃から私は、りえちゃんに依存していたのかもしれない。何をするにもりえちゃんと一緒だった。
周囲の人間からすれば、私はりえちゃんの足にしがみつく疫病神だった。
りえちゃんに付きまとう私の存在が、天才少女の名に傷をつける。奴らはりえちゃんをひとりの人間として見てはいなかった。
彼女は私なんかの存在でダメになるような人間じゃない。周囲に流されるほど弱くもない。確固たる意志を持っている。
そう思っていた私が彼女の弱さを初めて知ったのは……それから数年後のことだった。
当初、私はこの学校に来るつもりはなかった。私の学力じゃ、町一番の進学校であるこの学校の入試に受かる可能性は低かったからだ。
だが、あの事故が私たちの未来を変えた。すべてを失って今にも倒れそうだったりえちゃんのそばにいてあげたい……それだけを理由に必死で勉強し、この学校に入学したのだ。
りえちゃん以外に何も見えていなかった三年前の私。それから一年間はりえちゃんのそばにいることだけを考えていた。りえちゃんが昔のように元気な姿を取り戻すこと……ただそれだけを願い続けて。
二年生に上がった時、ひとつの出会いがあった。いや、厳密には一年前から出会っていた人ではあったのだけれども。
ともかくその出会いはりえちゃんにとって特別な意味を持つもので、私が一年間ずっとそばにいても成し遂げられなかったことをいとも簡単に成し遂げた。幸村先生の歌と出会ったことでりえちゃんは昔の元気な姿を取り戻し、再び前を向いて未来へと歩み始めた。
それは私にとっても、大きな転機のきっかけとなった。
りえちゃんが新たな音楽の道、合唱を始める決意を固めると、私は音楽部を退部して、いの一番に合唱部へと駆けつけた。
私にとって音楽部はいつかりえちゃんが帰ってくるために確保していた場所というだけで、私自身にとっては意味のない場所だった。ましてやりえちゃんが別の場所を作ってしまった今となっては、私のいるべき場所ではなかった。
私の居場所は、りえちゃんのそば以外にはないのだから。
合唱部設立へ向けて順調に進んでいたその時、もうひとつの出会いがあった。
私たちにとってその出会いは決して望んでいたものではなく、りえちゃんしか見ていなかった私にとっては障害であり敵だった。
そこで私は、またしても卑劣で陰湿で幼稚な……決して許されない手に出た。結局私はあの頃のひねくれた子供のまま、何も変わっていなかったのだ。
浅はかな私の行為は、あの時と同じようにりえちゃんまで傷つける結果に陥った。後先考えない私の先走った愚行によって、りえちゃんまで疑われ、悪く思われる。それだけは嫌だった。
そして私は悪意を自分に向けるため、さらに愚行を重ねる。それはなんの解決策にもならない、自己満足の押しつけに過ぎなかった。
私の話を聞いた演劇部の彼女は怒らなかった。それどころか、りえちゃんのために身を引くと言う。それはまるで、すべてを受け入れているかのように。
不思議な気持ちだった。淀んだ私の心には、彼女の気持ちが理解できなかった。
彼女の連れの男たち……特に金髪のほうは激怒して私をなじった。これが普通の反応だと私は思う。私がもしそちら側の立場なら、きっと私も激怒しただろうから。
その時、私は気づいた。
この人たちが、私の大好きなりえちゃんと似ていることを。
合唱部の設立が決定しても、私の心は晴れなかった。
この学校に来て初めて、私はりえちゃん以外の人のことを考えていた。
大好きなりえちゃんとよく似たあの人たちの……演劇部のために何かしなければならない。
あの日の彼の言葉が、懸命に頑張っている彼の姿が……私の決意を強くする。りえちゃんにもすべてを打ち明け、協力してもらった。
そして見つけた解決策は、とても簡単なものだった。そう、人を思いやれる人間なら誰でも思いつくような。
私はこれまで自分のことしか考えていなかった。りえちゃんのためと言いながら、自分の考えをりえちゃんに押しつけていただけ……それでは昔りえちゃんの周囲にいた大人たちと同じだった。
長い間、それに気づけなかった自分が情けなかった。
こうして私は長い時を経て、ようやくりえちゃんの本当の友達になれた気がした。
私にとって、一生忘れられない出来事だった。
~
アイドルかしゅ、学校の先生、ピアニスト、かんごふさん、まほう少女……あの頃はどんな大人にでもなれると思っていた。
大きな夢があった。
そんな小さな頃の大きな夢も、過酷な現実を知ることで少しずつ消えていく。
そして大きくなった今では、かけらほどの小さな夢しか残っていなかった。
その最後の夢をなくしてしまわないよう、必死にすがりついているのが今の私だ。
あるいはりえちゃんのように大きな夢を何かに打ち砕かれてしまうことだってある。
それくらい、小さな頃に抱いた夢を持ち続けるのは困難なことだった。
「~♪」
途中から私もりえちゃんに合わせて歌い出す。気づいたりえちゃんが笑顔を向ける。
りえちゃんの歌は、私たちの合唱になった。
私は卒業後、劇団を目指すことにした。
小さい頃……この歌を歌っていた頃に抱いていた夢。現実を知り、見失ってしまった夢。二年前まで忘れていた夢。
その夢を思い出させてくれたのは古河さんだった。
なくしてしまったと思っていたその夢は、まだ私の中に眠っていた。
古河さんの劇が私の中で眠っていた夢を……情熱を呼び覚まし、私は私自身の進む道を見つけた気がした。
りえちゃんは音楽大学に入学するために浪人するという。
これまで十年、ずっとりえちゃんのそばにいた私だけど、音楽を生きる道と決めているりえちゃんとは違い、私にはそこまでの思いも覚悟もなかった。
ずっと一緒だった私たちにも、ついに別れの日が来たのだ。
それは、本当は三年前に来るべき別れだった。
りえちゃんがヴァイオリンの道を閉ざされたことで一緒にいることになったが、それは私もりえちゃんも望んだことではなかった。
「…………」
歌い終えて長い沈黙。追憶の余韻に浸る。
過去を振り返るのも今日で最後だ。
明日からは未来へ向けて歩き出さなければならない。
「…………」
りえちゃんとこうして見つめ合っていると、その澄んだ瞳に吸い込まれそうになる。
ああ……最後くらい、この小さな体を抱きしめたいなぁ。
うん。最後なんだから、ちょっとくらい……いいよね。
少しずつ、距離を縮める。
「やあ、やっぱりここにいたのか」
ふたりの最後の時間を邪魔する奴が来た!
「原田さん……」
「てめぇこらお早い登場だな、おい!」
「いきなり酷い言われようだなぁ」
気にした様子もなく部室に入ってくる。
「今日でお別れか……」
「寂しくなりますね……」
りえちゃんはこの町に残り、私はここから電車で三十分ほどの町にある養成所の寮に入り、原田は隣の県の体育大学の学生寮に入る。会えないほどの距離ではないけれど、これからはそんな機会も少なくなる。
「原田さんはバレーボールを続けるんですね」
「まぁね。去年卒業した部長にも誘われてたからさ」
「去年の大会、すごかったです。原田さん大活躍でしたね」
「リトルジャイアントと呼んでくれ」
「野球選手かよ……」
ふたりの最後の時間に邪魔が入ったのは残念だけど、こうして合唱部を始めた時の三人で最後を過ごすのも悪くなかった。
こうして私たちは最後の時間を穏やかに過ごし、この学校の最後の思い出として深く心に刻んだ。
***
いつもと違う春休み。
部屋の荷物を整理しながら、入学案内や参考本を何度も読み直す。
もうすぐこの家とも……この町ともお別れだった。
嬉しさと寂しさ、新たな環境に対する期待と不安……それらがない交ぜとなって、なんだか落ち着かない。
「おーい、電話だぞー……って、なんだ寝とるのか」
気分転換にベッドで寝転がっていると、不意にお父さんが顔を出した。
「ううん、起きてるよ」
「電話。ちなみに男からだ。おまえも隅に置けんなぁ」
「男? 心当たりないけど。勧誘かなんかじゃないの?」
部屋を出て階段を下り、受話器を取る。
「もしもし、替わりました」
『あ、僕僕』
「ボクボク詐欺ですね。うち、貧乏なんで」
がちゃんと電話を切る。
すぐに電話が鳴った。
『いきなり切るなよっ! 電話代高いんだぞ!』
「ていうか、なんでうちの電話番号知ってるんですか? 怖いんですけど」
『仁科から聞いたんだよ。僕からおまえに伝えてほしいってさ』
むむ、りえちゃんめ……。
「それで……?」
『ああ。来週の日曜、空いてるか?』
…………。
あの学校で私が見つけた新しい道。
ずっとりえちゃんと共に歩んできた私が、初めて自分自身と向かい合い、そして選んだ未来。
そのきっかけとなったあの人。大切な友達。
実際にまた会っても感謝の言葉はきっと言えないけれど、それでも私がこの町を離れる前にもう一度会う機会ができたことを嬉しく思った。
その時は感謝の言葉の代わりに、あの卒業式の日に言えなかった言葉を言おう。
ありがとうではなく、おめでとう……
その、祝福の言葉を。
――終わり。
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感想などをお題箱で伝えてくれたら嬉しいです!
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♪後書き
CLANNAD10周年記念SS第23弾、杉坂アフターでした。
杉坂といえばやっぱりりえちゃん。これまでに他のSSで書いた杉坂とりえの出会いからその未来までを補完してみました。
そのSSの頃から小出しにしていた杉坂の未来についても補完しましたが、CLANNAD MEMORIESにも書いた通り、杉坂も渚と出会ったことで最低とは違う場所へ向けて変わっていった人間のひとりだと考えています。
りえちゃん同様、杉坂も私的想像部分が多いキャラクターなので妄想が多々含まれてますが、楽しんでもらえたら嬉しい。